エニアグラムの性格9分類を自分の精神史から検討すると

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 『恐ろしいほど当たる四柱推命』...三笠書房[ 王様文庫 ] には、

 「偶然は一切ありません。
  その選択も、その決断も、
  この四柱推命で判断できるのです。」 と、印刷されていました。

 もっとも、女性は「自分に都合の良い運勢だけを信じる」という方が多いようです。

 良い暗示を受ける分にはいいのですが、
 悪い暗示を気にすると、そうなってしまう

 ...というのが、潜在意識の恐るべき働きです。

 運勢学などでは、
 その人の生年月日や姓名の画数などから、
 その人の性格ばかりでなく運勢まで、
 すでに決定されているという前提に立っています。

 それに対して、エニアグラムでは、人の性格は9つの型に分類できるので、
 自分でどれに当てはまるのか、判断しなさいという立場をとっています。

 そのどちらの考え方も、私はとりません。
「性格とは、その人の可塑的なこころのうちで、習い性によってある程度固定化された傾向である」
 ...というのが、私の考えです。

 性格判断について、私の感想を書き連ねていきたいと思います。
    


 今回は、エニアグラムの性格9分類を、私の精神史に当てはめて、感想を書きましたので、これまでの内容と趣が違います。

 決して自慢話でもなければ、懺悔の話でもありません。
 ここで私が何を申し上げたいのか、その意味をご理解頂ければと思います。



 【タイプ1】?完全でありたい人

 最初の性格判定設問に答えながら、「あ、私はこのタイプに近いな!」と思いました。
 基本的に、何事もキッチリしていないと気が済まないタイプです。

 昔、高見順の『我、深き淵より』という詩集を読んでいて、
 「過去の校正ばかりしている手」という一行に出会い、
 「そう!それです...」と、高見順に共感したことを思い出しました。


 校正というのは、編集者などが原稿の誤字・脱字・誤用などを正す作業のことです。
 「校正ばかりしている」ということは、完全を求めすぎて、どんどん前に進めない、ということです。
 今、まさに私は男女の関係を取り扱ったE-Bookを書きかけたまま、完璧を求めて回り道という状況ですね。

 完全主義的傾向の人は現在に満足しない。自分の満足というのは常に未来にある、という求道者ですね。勝手にイチロー・タイプと名付けさせて頂きました。

 自分に厳しい人で、陰陽でいうと、自分の内面に向かう内向的傾向が強いですね。



 【タイプ2】?ひとの助けになりたいひと(マザーテレサ型)

 私は以前から「エコーボランティア」という構想を実現したいという希望を持っています。

 エコーというのは自分に返ってくる「こだま」(echo)という意味と、大乗仏教で言う回向(えこう)という意味を込めています。

 回向とは、自分が功徳を積んで、それを他の人々の功徳として手向ける、ということです。
 その代わり、自分が手助けを必要となったら、次世代の人に助けてもらう...という、時間差相互扶助システムです。

 何でも良いから、自分が今できることから始めたいと思っています。

 たとえば、ひと付き合いが苦手な自分だからこそ、身につけざるを得なかった
 「ひと付き合いで大切なこと」を
 同じような悩みを持つひとに、ひとこと伝えておきたい

 そう考えて、このサイトを作りました。
 自分に出来ることで、なにかしら人の役に立ちたいというタイプ(2) の性格も、
 自分としては、ひと一倍強いなと感じています。


 このタイプの傾向は、他者に関心が向かう外向的な人に多いですね。
 外向的ということは、必ずしも社交的ということではありません。
 外界の事象に心を動かされやすい人、ということです。

 困っている人を見ると、放っておけない性格の人は、このタイプですね。
 


 【タイプ3】?成功を追い求める人(エグゼクティブ型)
 
 このタイプの特徴として「楽天的」と書きましたが...

 成功することに自信があって、
 失敗しても次の手を繰り出すために、
 結果に対して楽天的になれる、

 ...というニュアンスだと思います。

 実は、私はこの設問の得点が最も高かったのです。
 上昇志向が強いタイプです。

 私のモットーは、「今日は昨日より、少しでも良い仕事をしよう」というものです。
 進歩や達成感のない一日を過ごすことなど、考えられない。

 何かをやる場合、よーいドンで競争したら、負けない、
 という気持ちが強いですね。


 基本的にセルフスタータータイプですので、
 人の指示を待つ人間ではありません。
 そして、効率を求めて、創意工夫し続ける。

 私の情報商材の一つである『タナゴ釣り奥義』は、
 タナゴ釣りを始めて3ヶ月後に書き上げました。本来、あり得ないことですが...

 仕事をやる時は、24時間仕事のことを考えていて、
 自分のやるべき事を徹底してやる。
 
 猪突猛進という性格を内に秘めています。
 
 
 
 【タイプ4】?特別な存在であろうとする人(芸術家タイプ)

 これも、ものすごく当てはまるなと思いました。
 ひとと同じ事はやりたくないタイプですね。

 オーソドックスなことの重要性を認めつつも、自分はやらない
 なかなか芽が出ない、損な生き方ですが、
 ブレイクする、と大きな成功を得ることが出来ますね

 
 ポール・ニザンの『アデン・アラビア』は次の言葉で始まる

 「ぼくは二十歳だった。
 それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとはだれにも言わせまい。」

 ...何者かであろうとする人、ですね。



 【タイプ5】?知識を得て観察する人(学者タイプ)

 私の仕事のキャリアで一番長く、まさに自分の天職だと思ってやってきたことが、生命科学の分野の仕事でした。


 子供の時から、私は理科系の能力と、言語表現(書くこと)力が突出していたようです。

 小学生で東京工大というあだ名をいただきました。

 表現力の方は、小学生で姉の本箱の日本文学を盗み読みしており、
 中学2年の読書感想文で、ゲーテの『ファウスト』を原稿用紙100枚以上書いて
  「寸評を加えられるものなら、加えてみろ」...と、国語の教師を見下していました。


 そんな私には、研究と執筆という仕事は、本当に天職だと思われました。
 
 何よりも、私は知的好奇心が強いので、知識を得ることで満足してしまう。
 このタイプの人に大切なことは、情熱を表に出す、ひとに伝えるということですね。

 冷ややかに見られがちなのが、損なところだと思います。



 【タイプ6】?安全を求め慎重に行動する人(官吏タイプ)

 ここまでくると、さすがにお読みになる方も、またかと思われるかもしれません。
 そう、またまた、なのです。

 私の最初の仕事は地方公務員でした。
 考えてから行動するタイプですので、役所向きのところがありましたね。
 根がきまじめな私は忠実な官吏として仕事を粛々とこなしました。

 尊敬できる人に対して、私は非常に忠義を尽くします。
 けれども、
 尊敬できない人ですと、上役であろうが批判をしてしまう失敗もやらかします。


 役所は人事持ち回りの組織ですので、
 上役が変わって、アホとしか思えないのに権勢欲だけが強いタイプとなり、
 すぐに喧嘩してしまいました。


 そして公益法人に転身。
 生命科学の大ボスの下で、天職と思える仕事に邁進します。
 この時期、私は木下藤吉郎秀吉のように熱心に仕えました。
 
 この大先生の薫陶を受けて、
 私はグループ5社を統括する最高経営責任者に駆け上がりました。


 大先生は天才と行動力を持った高名なかたでしたが、織田信長的な所があり
 猜疑心が強い孤独な権力者であることを知ります。


 ですので、私は...
  「李下に冠を正さず」ということを常に心がけ、決して疑われるような行動をとらないこと。
  決して切れ者であると思われないように、と細心の注意を払って、仕えました。
 (昼行灯といわれた大山巌元帥を見習ったわけです)


 それだけ注意を払っていても、宦官・道鏡の類の側近のはかりごとにはまってしまったのです。
 グループ内の裁判沙汰があって、
 情報操作と心理戦をやられて、
 会長の猜疑心を突かれてしまったのですね。

 
 スパイ嫌疑を受けた私は、一切弁明せずにCEOを返上しました。

 これだけ細心の注意を払っていても疑いをもたれるなら、この先も苦労するだけだと思ったからです。

 それと、兵隊が最前線で戦っている時に、大本営が後ろから鉄砲を浴びせる、
 ...という行為が、大義を重んじる私には承服できなかったのです。


 その後、内通の疑いが晴れて、戻って来るよう要請されましたが、
 もはや我が師たり得ない人に仕える気持ちはありませんでした。

 このタイプの人間に見られるマイナス面だと、エニアグラムは説いています。




 【タイプ7】?楽しさを求めて、計画する人

 これは、私の趣味ページを見ていただけば、やりたいことがいっぱいあって、時間がいくらあっても足りないという私の一面をご理解頂けるでしょう。

 その中でも、最も古くからの趣味が釣りで、勉強も仕事も放り出して熱中するブームが周期的にやってきます。
 しかも、徹底してやるのが度を超している。

 ヤマメのテンカラ釣りという伝統的毛針釣りの時は、
 神業といわれる竹株渓遊師の技を知り、師の勧める竿を買い求め、
 神業をマスターすべく、毎日毎日、振り込みの練習に明け暮れ、
 買ったばかりのハイカーボン竿が、弾性疲労を起こして折れてしまったほどです。

 ハイカーボン竿が折れるほど修練をしたという話は、他に聞いたことがありません。
 後年、テンカラ・フォーラムで、師と顔を合わせ、毛針の腕前を披露して、
 師から免許皆伝のお墨付きをいただきました。

 やりたいことがいっぱいあって、同好の士と話をするのは本当に楽しいです。



 【タイプ8】?強さを求め自己主張する人

 これが、私にとって一番縁がないような気がしましたが、性格判定の設問から子供時代を思い出しました。

 保育園で、並はずれて自己主張が強く、
 保母さんに叱られても絶対に謝らず、
 思い切り大声を出して抗議するために、空き部屋に一人で閉じこめられることが何度かありました。

 でも、私は一人でいることが全く平気で、ガキっぽいお遊戯をやらずに済むので、せいせいして一人遊びをしていました。


 この性格のために、父親からずいぶん折檻されたことを思い出しました。
 
 今考えると、宮本武蔵の武蔵(たけぞう)時代の逸話そのものです。

 何度もやられた記憶があるので、懲りない子供だったのでしょうか。

 自己主張がつよく、納得の出来ないことや権威には平気で批判したり、反旗をひるがえしたり...

 しかし、無神経で傲慢、不愉快な人物を多く見てきて、そのようにはならないと心していますので、
 最も遠い人格のように思えます。




 【タイプ9】?調和と平和を願う人

 仏教に「縁覚」というのがあります。
 仏陀に直接教えを受けずとも、仏法に縁を得て悟りを開くことをいいます。
 その逆は「縁なき衆生は度し難し」といい、縁がなければ仏陀といえども救いがたい。

 私の縁覚の師は、

 ・スッタニパータの仏陀(スッタとは教典という意味の最も古い言葉)
 ・マハトマガンディー
 ・宮沢賢治
 ・五井昌久
 ・合気道開祖・植芝盛平
 ・新体道の青木宏之
 ・日本導観の故早島天來(筆名早島正雄)

 Wiki でお調べ下さい。
 何を私が求め心に刻みつけてきたかが、分かるかと思います。

 かつて、シタールを学んだベナレスヒンドゥー大学名誉教授の師は、
 「おまえの心は、明鏡止水が如し」と私を評してくれました。

 フランス娘やアルゼンチン青年の弟子もいましたが、個人主義の西欧人は、
 「こころを無にして、神の声を聞け」というインド音楽の精神を理解しない。

 日本で徒弟制度のなんたるかを知っている私は、他の弟子たちに無とは何かというインド哲学を教える兄貴分の役割を果たしていました。
 
 我の強い子供といわれた私が、自己主張の強い西欧人に無私のこころを教える
 ...皮肉な話です。

 何よりもこころの平和を望む私には、賢治の「野の道」に佇む姿が理想像として浮かびます。



 このようにして見ていくと、私は矛盾だらけの人間ということになってしまいます。
 エニアグラムでは、「納得するタイプを見つけられない理由」として、

 (1) 想定したタイプが間違っている→自分の本心が反映されていない
 (2) 自分の本質を理解していない、あるいは認めたがらない
 (3) 後天的な矯正によって、本質が歪められている

 という3つのケースをあげています。


 しかし、詐欺師が本性を現すなどというのと違って、自分の性格を冷静に見ていくわけですから、
 今、現に表れている性格が、現在のその人の性格の傾向なのではないでしょうか。

 エニアグラムは、そのような傾向を仮の姿だとしていますが、仮の姿などではなく今の姿だと、私は思います。
 前ページのスパイラル構造で示したように、すべての事象はスパイラルに変化をしています。


 習い性によって、本質は歪められているのではなく、その人の豊かな個性を形成しているのです。
 文化であれ、性格であれ、数多くの要素が時系列で積み重なって、重層的なのが当たり前なのです。
 それを捨象した本質という名のものに、真実はないといって良いでしょう。


 なぜ、このような無理な当てハメをするかというと、始めにタイプありき、だからなのです。
 10人10色、100人100様...
 ひとが100人いれば、100の個性がある。
 これこそが、本当のことではないのでしょうか。


 始めにタイプありきで、自分というものをチェックしてみると、
 はっきり分からない
 ...というのが普通の人だと思います。
 レッテルを貼ることで、本当の姿を見誤ってしまいます。


 レッテルを貼るということは、先入観を持つということです。
 先入観をもてば、それ以上の思考は停止してしまいますね。
 ケースバイケース、時と場合に応じて、相手を正しく理解しようというこころが失われるのです。

 そのような対人姿勢からは、深い理解と共感は生まれてきません。


 人の目をくらませ、判断を誤らせる最も大きな原因はこの先入見なのです。
 (先入見とは現象学の用語で、先入観というよりも、根本的な認識の意味で使う)

 フッサールは先入見を排除するために、エポケー(判断保留)の必要性を説きましたが、
 認識論でなくとも、始めにタイプありきみたいな予断は排除するべきですね。

 (さらに続く)

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