さすがに、この人は分かっているなと思います。
由紀さおり『手紙』 (作詞・なかにし礼)
男の作詞家が女性歌手の歌詞を作る場合、自分の理想とする女性を描くのだと思います。
ですから、そんな歌詞を女性が深く読めば、男が求めている「いい女」というものがどんな女なのか分かってきますね。
由紀さおり『手紙』 (作詞・なかにし礼)
男の作詞家が女性歌手の歌詞を作る場合、自分の理想とする女性を描くのだと思います。
ですから、そんな歌詞を女性が深く読めば、男が求めている「いい女」というものがどんな女なのか分かってきますね。
この歌詞のほとんどの部分は、女性の心情を歌っていますね。
といっても、あくまでも男が考えた女性の気持ちかも知れませんが。
「死んでもあなたと暮らしていたいと、...」この部分だけかもしれません。
しかし、これに続く部分は女性的なリアリティーがほとんど感じられません。
「二人で育てた小鳥を逃がし、
二人で描いたこの絵燃やしましょう」
小鳥をプレゼントしてくれたのはうれしかったけど、餌やりやフンのお掃除、水取っ替えなど、結局私が面倒見るんじゃない! というのが、本当の話でしょう。
そして、二人で一枚の絵を描く、という話。ありそうだけれども、あり得ないでしょうね。
いやしくも、絵を描くような人間は、自分の世界にものすごいこだわりを持っているものです。女房といえども、他人が筆を入れたものなど自分のものにあらず、という感覚があるはずです。
要するに、二人で?というフレーズは、二人が愛し合っていて、仲良くうまく行っていた時代を暗喩で表しているだけで、実際的な意味合いなどないのだと言ってよい。
実感を表しているのではなく、象徴的に言い表しているということです。
「何が悪いのか、今も分からない
誰のせいなのか、今も分からない」
このような感想を果たして女性が持つのかどうか、非常に疑問です。
もしあるとしたら、分かれる理由は「男の価値観を、女性が理解しない」という言い方でくくれるのではないかと思います。そしてそれは、「女の価値観を、男性が理解しない」ということでもあるのですが...。
女性は本質的なところで、生活実感派つまりリアリストですから、あのときこういう事があって傷ついたとか、あんたのこういうところがたまらなく嫌だった、とかあるのが普通です。
男は、仕事の責任が年と共に増加して、家のことは女房任せ。妻がどんな思いをしているかは、よその世界のことのように感じている、という時期が必ずあるのです。そのような時期、男は頭の中が真っ白になるほど仕事に打ち込まねばならない。
これを経なければ、仕事の世界でものにならない、という宿命を男は担っている。それを避けて、家庭を大事にすれば、出世もない、収入も増えないグータラ亭主で、愚痴は言っても離婚はないけど、という話である。
「何が悪いのか、分からない」といっているのは、女性の気持ちなんかではなくて、徹頭徹尾男が考える女性像の表現なのだと言えるでしょう。
このような、決してリアルではない、「女性がプロセスを大事にする心情」を、思い入れを抑えて描くことで、なかにし礼もやはり精神的に自立した大人の女性像を浮き上がらせています。
作詞家のバランス感覚というか、力量が如実に表れていると思います。
そして、最後にひとこと
「あしたの私を、気遣うことより、
あなたの未来を、見つめて欲しいの...」
と、さらりと言わせています。
女性に言わせれば、とんでもない! 慰謝料と、子供の養育費(もし、いれば)、住む所をどうしてくれるのよ。私の人生を返して...という気持ちになるでしょう。
もちろん、それは行間にかかれていない部分ですが。
このエンディングは、
男のものの考え方は「目的志向」である、ということを分かっている女性として、そして自分は自立した女であるという「女の品格」を、この2行で鮮やかに宣言しているわけです。
そして、「自分という人間が精神的に自立しているからこそ、あなたへの本当の思いやりが出来るのです」と、母親的なあるいは聖母的な愛情を裡に秘め、男を一人前の男になれと背中を押している、という矜持の姿勢をも示している。
そして、そして、やはり女だから泣いてしまう。本当はあなたに、心の支えになって欲しいの...、という余情がありますね。
「あしたの私を、気遣うことより、
あなたの未来を、見つめて欲しいの...」
こんな事を言える女性が果たしているのか、歌謡曲だからじゃないの、ということになってしまうのですが...
もし、いたとすれば、
よりを戻してしまう決め言葉になってしまうかもしれません。
この歌を改めて聴いていて、思わず「そう、それよ!」そこを分かってくれるなら、分かれる理由はない、という思いを懐きました。
そのようなことを分かっている女性とならば、お別れの手紙を書く事態にはならないのだと、男としては思えるのです。
この歌は「冬のリビエラ」とは異なって、女性の歌なのですが、実は女性を描いているのではなく、「女よ、こうあってくれ」という、ある意味で身勝手な願望を投影しているわけですね。
男ってやつは!
といっても、あくまでも男が考えた女性の気持ちかも知れませんが。
「死んでもあなたと暮らしていたいと、...」この部分だけかもしれません。
しかし、これに続く部分は女性的なリアリティーがほとんど感じられません。
「二人で育てた小鳥を逃がし、
二人で描いたこの絵燃やしましょう」
小鳥をプレゼントしてくれたのはうれしかったけど、餌やりやフンのお掃除、水取っ替えなど、結局私が面倒見るんじゃない! というのが、本当の話でしょう。
そして、二人で一枚の絵を描く、という話。ありそうだけれども、あり得ないでしょうね。
いやしくも、絵を描くような人間は、自分の世界にものすごいこだわりを持っているものです。女房といえども、他人が筆を入れたものなど自分のものにあらず、という感覚があるはずです。
要するに、二人で?というフレーズは、二人が愛し合っていて、仲良くうまく行っていた時代を暗喩で表しているだけで、実際的な意味合いなどないのだと言ってよい。
実感を表しているのではなく、象徴的に言い表しているということです。
「何が悪いのか、今も分からない
誰のせいなのか、今も分からない」
このような感想を果たして女性が持つのかどうか、非常に疑問です。
もしあるとしたら、分かれる理由は「男の価値観を、女性が理解しない」という言い方でくくれるのではないかと思います。そしてそれは、「女の価値観を、男性が理解しない」ということでもあるのですが...。
女性は本質的なところで、生活実感派つまりリアリストですから、あのときこういう事があって傷ついたとか、あんたのこういうところがたまらなく嫌だった、とかあるのが普通です。
男は、仕事の責任が年と共に増加して、家のことは女房任せ。妻がどんな思いをしているかは、よその世界のことのように感じている、という時期が必ずあるのです。そのような時期、男は頭の中が真っ白になるほど仕事に打ち込まねばならない。
これを経なければ、仕事の世界でものにならない、という宿命を男は担っている。それを避けて、家庭を大事にすれば、出世もない、収入も増えないグータラ亭主で、愚痴は言っても離婚はないけど、という話である。
「何が悪いのか、分からない」といっているのは、女性の気持ちなんかではなくて、徹頭徹尾男が考える女性像の表現なのだと言えるでしょう。
このような、決してリアルではない、「女性がプロセスを大事にする心情」を、思い入れを抑えて描くことで、なかにし礼もやはり精神的に自立した大人の女性像を浮き上がらせています。
作詞家のバランス感覚というか、力量が如実に表れていると思います。
そして、最後にひとこと
「あしたの私を、気遣うことより、
あなたの未来を、見つめて欲しいの...」
と、さらりと言わせています。
女性に言わせれば、とんでもない! 慰謝料と、子供の養育費(もし、いれば)、住む所をどうしてくれるのよ。私の人生を返して...という気持ちになるでしょう。
もちろん、それは行間にかかれていない部分ですが。
このエンディングは、
男のものの考え方は「目的志向」である、ということを分かっている女性として、そして自分は自立した女であるという「女の品格」を、この2行で鮮やかに宣言しているわけです。
そして、「自分という人間が精神的に自立しているからこそ、あなたへの本当の思いやりが出来るのです」と、母親的なあるいは聖母的な愛情を裡に秘め、男を一人前の男になれと背中を押している、という矜持の姿勢をも示している。
そして、そして、やはり女だから泣いてしまう。本当はあなたに、心の支えになって欲しいの...、という余情がありますね。
「あしたの私を、気遣うことより、
あなたの未来を、見つめて欲しいの...」
こんな事を言える女性が果たしているのか、歌謡曲だからじゃないの、ということになってしまうのですが...
もし、いたとすれば、
よりを戻してしまう決め言葉になってしまうかもしれません。
この歌を改めて聴いていて、思わず「そう、それよ!」そこを分かってくれるなら、分かれる理由はない、という思いを懐きました。
そのようなことを分かっている女性とならば、お別れの手紙を書く事態にはならないのだと、男としては思えるのです。
この歌は「冬のリビエラ」とは異なって、女性の歌なのですが、実は女性を描いているのではなく、「女よ、こうあってくれ」という、ある意味で身勝手な願望を投影しているわけですね。
男ってやつは!

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