TPOをわきまえろとよく言いますが、どのようにわきまえるか、ということは若い人、特に女性は分かっていない人が多いようです。
今の世相がよく分かるエピソードを紹介しましょう。
先日、日本放送の「男と女の大論争」という番組で、「頭にくる夫あるいは妻の態度」というのを放送していました。リスナーのメールやFAXで募集したものを、発表して、スタッフがコメントするというものです。
その中に、
...夫の会社に何時に帰ってくるのか電話すると、いつでも夫はものすごい早口で、よそよそしい挨拶めいたことを言い、その件につきましては鋭意検討中でございますので、改めてこちらからご連絡差し上げます」とか言って、ガシャンと切るので、大げんかする...
というような話が紹介されました。(語彙はうろ覚えです)
男に言わせると、まさに「困った女」としか言えないのですが...。
・男性や年配の女性は、「そもそも仕事中にそのような電話をかけてはいけない」と問題の本質を分かっている人が多い。
・若い女性は、「旦那が悪い」という人が多い。
私は、社会人として不可欠な教育を受けていない女性があふれかえっている現状に怒りを覚えるほどです。人として、未熟なのではなく、恐ろしく無知なのですね。
女性は子を産み育て家庭を守るという性としての基本的な役割を担えるようにできていますので、その分だけ共同性規範の意識を身につけにくいのではないかと思います。
人の意識世界あるいは観念は、
(1) 個人的意識世界
(2) 一組の男女ペアの世界(いわゆる二人の世界)
(3) 共同性の原則に立つ社会意識
この区分と逆立ち構造を明確に提示したのは吉本隆明の『共同幻想論』ですが、吉本は共同幻想は個幻想と、あるいは対幻想と相容れない、鋭く対立するものであることを鮮やかにえぐり出しています。
観念とか意識という言葉を使わずに吉本が「幻想」と言ったのは、観念論哲学とか、心理学が扱う意識という意味合いと区別するためです。
吉本は、共同幻想の最たるものとして国家というものを規定して、その国家が起こした戦争を抑止するのは別の共同幻想ではなく、個あるいは対幻想なのだ、ということを述べています。
その中で、与謝野晶子の「君死にたもう事なかれ」という歌は、一億総玉砕という共同幻想を根底からひっくり返すような歌なのだ、と鋭く指摘していて、鮮やかに記憶に残っています。
この歌は、「お国のために戦死するなどという虚妄よりも、大事な家族(弟)である君が生きて帰ってくる事の方が大事に思う」と、大変な事を世間に発表しているのです。
先の、「男と女の大論争」も煎じ詰めると、夫婦・家庭という対幻想の世界と、会社という共同幻想の世界とは相容れないものだ、と言うことを妻が分かっていない、ということなのです。
会社にいる夫は、**会社の○○△△として共同性の一部なのであり、家にいる夫とは違う意識存在としてその場所で働いている、ということです。
共同幻想に、個幻想や対幻想を持ち込むということは共同規範の存立を根底から覆してしまう危険な要素があり、タブーなのです。
同じように、「学校という共同規範の世界に、男女の関係性を持ち込むという行為は、犯すべからざるタブーを犯しているのだ」ということを、しっかりと教えて行かなくてはいけないことだと思います。
学校というものが持つ共同性規範をいつの間にか腐らせ・侵食してしまう事はいかんぞ、ということをここで教えないと、企業も組織も、学校も規律が崩れかねない危険性があるのです。
また、そのようなことを許している男性がいるとしたら、一家の大黒柱は虫食いだらけで会社で使い物にならない、という事態になりかねないということです。
このことは、社会人として最低限の常識としてこの女生徒に教え込まないといけないはずですが、被害者だからお咎めなしというのは、おかしいのです。咎める必要はないですが、教育する必要はある。
なぜそのような大切なことがなされないかといえば、学校教師が、教育者ではなく司直の下僕に成り下がってしまっているからではないかと、疑問を呈しておきたいところです。
本当に教育すべき事が分かっていないとしか言えません。
原因を見ないから、より本質的な問題点が見えてこないのです。
原理原則の部分を明確に認識してないから、的を射った指導が出来ないわけです。
誰が女生徒を平手打ちしたのか?
もちろん息子の行為ですが、その行動をとらせたのはどのような意識・考えなのか、という問題を掘り下げねば何も理解したことにはならないでしょう。
(1) 共同規範意識
少なくとも息子はそのような規範意識をわきまえていたから、非常に困惑したのだろうと思います。
男という種は子供を生まない代わりに、外に出て食料を調達してきたり、外敵から家を守るという役割を担うようになっています。
狩猟などは男同士が協力して、役割分担を行い、人間よりも強い動物を捕獲します。ですから、共同規範の中で役割分担をするという思考をしやすいように出来ているのだと思います。
息子は、**高校3年○○組の□□△△という共同規範性の一員という意識を持っていたからこそ、教室の中で、この女生徒の行動をまずいと思った。ちょっとした口げんか程度はやむなく応じるけれど、恥も外聞もなくみんなの前で泣き出した。
のっぴきならない事態の当事者の一人として、否応なしに巻き込まれてしまった。
そして、共同規範性の意識で対処した行為が平手打ちである、という要素が一つ。
これは、共同幻想という男性原理としては、外れていないと思います。共同規範意識の存立をかき乱す行為を、やめてくれと咎めた。
もともと、逃げる理由はないのですし、もし逃げれば「何か彼女に泣かれるような悪事をはたらいた」と思われるのがオチです。
みんなの前で、有り得べからざる恥さらし行為の当事者に引き込まれてしまった。
かといって、どこにでも人がいる学校の中ですから、人目を避ける場所が近くにない。
無視しようとしても、泣いている彼女が衆人環視の中に晒されることは忍びない。
他に適切なやり方が即座に浮かばずに、平手打ちでヒステリーを沈静化させた。
彼としては他に良い方法が見つからなかった、ということが問題なのです。
この理解は、牽強付会だという方もおられるかもしれません。
なぜ、「共同規範性の意識で対処した行為」だと言えるのかといいますと、それまでにも二人だけで言い争ったり、泣かれて困らされた時に、平手打ちをしたことなど一度もないからです。ただただ困り果てているだけの腑抜けな男子なのです。
「二人だけで話し合っている場では、言い争っても平手打ちはなかった」のです。
その彼を平手打ちという行為に結びつけたものは何かというと、その要因の一つは、共同幻想は対幻想とは逆立した意識世界である、という規範意識それ自体にある、ということなのです。
共同規範意識は「共同性に反する異物は排除すべし」という原理的な意識ベクトルを持っているからです。
共同規範意識感を強く持つほど、そのベクトル(力の大きさと方向性)が強くなる、ということですね。
学校という共同規範意識もまた、事が起これば異物を排除するという、意識方向性に動くことに変わりはありません。
先に参照しました文科省の「通知」にも、「問題行動に犯罪行為の可能性があれば、直ちに警察に通報し、その協力を得て対応する」ということが明記されています。
共同幻想である国家は、秩序(共同体の存立)維持のための警察や軍隊を持ちます。
もちろん警察や軍隊が力を行使するのは、暴力とは言いません。
それはなぜかというと、共同幻想である国家の存立を維持するという大義名分があるからです。
決して、警察=正義であるから、ということではありません。
この点は誤解しやすいかもしれませんが、戦争における軍隊という力は、正義であるとは認められないからです。太平洋戦争は、日本という共同幻想が、大東亜共栄圏の樹立という正義論を掲げて、行われたということを指摘しておけば十分でしょう。
そして、学校という共同幻想もまた、国家の縮図であり、異物排除力の行使を是認している、という図式になっているのです。警察権力を導入してでも、問題行動をとる生徒は排除し、懲罰を加える、という基本構造を持っているのです。
息子は学校という共同規範意識をもって教室の席にいた。
そこに、女生徒が嫉妬心という対幻想の世界を持ち込んで、決して有り得べからざる、そしてのっぴきならない状況を作った。
彼は、これを排除すべきものと意識した。
ということです。相似形なのです。
学校がやっていることと、基本的には同じ事をやっているのです。
学校といえども、否応なしに社会の縮図である、という現実がここにも露呈しているのです。
問題行動とされる暴力というのは、共同規範意識を乱し、破壊する力の行使だとすれば、息子の平手打ちは共同規範(規律維持)意識による異物排除行為だと、区別できるものだと思います。
十把一絡げで、何でも暴力だという小児病的単細胞思考では、両者は180度正反対のものである、ということは理解できないことかもしれません。
(2) 対幻想意識
問題があるのは、この部分ではないかと思います。
どういう点かといいますと、「無視しようとしても、泣いている彼女が衆人環視の中に晒されることは忍びない」という気持ちになったことです。気持ちが優しすぎる、ということです。
彼が未熟であるために、情に流されたけれども、共同幻想に情というものはない。
ここは、「学校の教室でやってはならんことを、やるな!馬鹿者!」と、一喝すればよいだけのことです。規範意識を持って、非情に徹しなければいけない場面なのですよ。
なぜ、そういう風に出来ないかと言えば、
・学校が「男女関係を学校に持ち込むな」という事を指導していないからです。それをやっていれば、彼は「やてはいけないことをやるな」と的確に言えたと思います。
・子供の時から喧嘩はいかん、腹を立てるのはいけない、という教育をされてきているために、怒るべき時に怒れない。
今の若い人間は総じて怒らなくなりました。
しかし、怒るべき時には怒らないといけないのです。
怒りをまっとうに外に出さなくなったために、火山や地震のように一気に吹き出してキレるという感情の暴発が起こるわけです。
怒りを押し殺す、という指導は多くの精神的な問題を内包することになります。
「怒りというのは、不当な扱いや振る舞いを受けた時の反応である」ということを初めに書きましたが、言葉を変えれば「自分を大切にしようとする感情の表れ」だということです。
それは、すなわち「自他の違いを感じて、自分という存在の価値を外に向かって発信する原初的な感情なのだ」ということです。
・怒りは内にため込むべきものではなく、外に出すべきもの。
・怒りを表す時は、何に怒っているのかを明確にすること。
・怒りを表す目的は、自分の感情の圧力抜きをすると同時に、相手の不当な態度を指摘し、お互いの人間関係を望ましいものにすること。
こういう事を理解していれば、腹を立ててはいけないという指導も、怒りを自分で打ち消すことも、決して正しいものではないなと分かるはずです。
このことが問題となってくるのは、学校が教育的指導の一環として課す毎日の反省文です。
私は、学校に「反省文は、一、二度書けば、書くことがなくなる。何を反省させ、何を学ばせようとするのか、それを明確に指示しなければいけないでしょうね」と、釘を刺しておきました。
というのも、例のJR福知山線脱線事故で問題となった、JR西日本の「日勤教育」と同根の問題があり得るのではないか、と危惧したからです。
JR西日本では、日勤教育という懲罰的なものを目標未達成の運転手に科していました。しかしこのやり方は、再発防止の教育とはならず、かえって乗務員のプレッシャーを増大させていた元凶であった、と指摘されました。
実は私の高校時代に、同級生が停学処分を受けたことがあり、彼を励ましに行って反省文を読んだことがありました。
問題は世界史の教師が生徒になめられまいと、恐怖支配をするために一罰百戒の見せしめとして、彼を授業の度に教科書で頭をぶった、ということなのです。級友は不満の意を表したために、停学処分を受けました。
私たちは、「お前は悪くないぞ」と、入れ替わり立ち替わり彼を激励しに行きましたが、彼は他校に転校し、その後とうとう退学してしまいました。
後年、私が県職員になって、この元教師と顔を合わせ、今や教育委員会のトップに君臨していることを知り唖然としました。
同窓生の誰もが、あんな人間が教育長であって良いわけがない、と憤ったものです。東大卒の秀才かもしれませんが、人格的に偏った人間だと見なしていたからです。
息子の反省文を読んでみると、「カッとなって、ぶったことは悪かった」から始まり、「あんな馬鹿なことをした自分は未熟だった」、「考えもなしに、軽率なことをやったのが、そもそも間違いだった」...と、書くことに事欠いて、あれも悪かった、これも悪かったという「自分バッシング」に陥っていることが見て取れました。
学校側としては、うむ反省している、反省している、と満足かもしれませんが、私から見ると「盆栽の枝作り」に似た矯正指導ではないか、と思います。正しい指導をしているとは言えないものがあります。
これでは「自分を大切にしようとする感情」を否定し、「自分という存在の価値を外に向かって発信すること」を否定し、しいては「自分はダメな人間だから、懲罰を受けるのが当たり前なんだ」という、自分らしさをすべて否定していくことになっていきます。
半世紀も昔と全く変わりがないやり方が、依然として行われていて、何の進歩もないという実態を知り、その問題点も如実に表れており、粗雑きわまりない教育だなとため息を漏らさずにはいられません。
私たちが本当に教えていかねばならないことは、
・NOという気持ち(怒り)をいかにうまく・的確に相手に伝えていくか
・他者の怒りをどのように受け止めていけば良いのか
という、人間関係をスムーズにしていく基本的なやり方ではないでしょうか?
そのためには、
・自分をありのままに見て、ありのままの自分を受け入れること。
・他者をありのままにみて、ありのままを受け入れること。
・他者とは違う自分の特徴、自己表現の仕方をチェックし、必要なスキルを学ぶ
以上の3つのステップを経なければいけないからです。
彼の場合は3番目のステップが一番出来ていない課題なのですが、この反省文指導では「ありのままの自分を受け入れること」を否定する結果に陥っているのです。
私は、この反省文に、あえて必要なコメントは書かず、簡単な感想を書くにとどめました。それは、学校としてどのような教育指導をするのか、見極めたいと考えたからです。
しかし、息子に聞いてみると、反省文について何の指導もないのだという。事件自体が軽微なものであり、手続き通りにやらないと幕が引けないということのようです。
若い時は、いろいろな点が未熟であるために、いろいろな経験を積んで学んでいくものです。このような失敗をすることは、それだけ学べるということです。
このようなことは学校でも起こるということを前提にして、そこに内包される問題をしっかりと教えていくことが必要ではないでしょうか?
学校を出てしまうと、親切に教えてくれる人はいないでしょう。
社会からつまはじきにされるか、いわゆる迷惑おばさん、自己中男になっていくかもしれません。
ここで学ばせるべき事は、罪と罰などという司法の問題を第一にするのではなく、
・どのように適切なコミュニケーションをとるべきだったのか、
・どのような対処をすべきだったのか、
...ということなのです。
今回の学校の対応を見ると、教育を忘れた管理優先主義に陥っている現状が浮き彫りにされています。
そういう処罰が終わった後で、何か問題が解決しているでしょうか?
問題の本質を見ようとしない以上、何も解決するはずがないのです。
これだけ大騒ぎして、なにも解決せずに、幕を引いて終わりとなってしまうだけです。
どうしても、一人で多くの生徒を預かりますので、きめ細かな対応など出来ないことは分かっています。
先生の立場からすると、えてして「 One of them 」という気持ちになりますが、生徒からすると「 一対一の関係 」なのです。
学校からすれば、ただのバカ野郎の生徒に過ぎないのですが、その馬鹿な頭の中にはこれだけの、いやこれ以上の、重く受け止めて頂きたい精神世界が存在している、ということをもっと知って頂きたいと思います。
喧嘩とも言えない喧嘩で、軽々しく停学処分を科して、親が2回呼び出されてこの一週間仕事が停止状態で、対応を余儀なくされました。
しかるに、学校は指導らしき指導をやらず、はい一丁上がりという事務処理対応なのです。
息子が言うには、当人にも保護者にも面倒なことを課して、「面倒なことになる」という教訓を与えることが、処分のねらいなのだとか。
学校は建前上、このようなことを明言しませんが、本音は、事なかれ主義だということです。
(7) 妄想という死の棘...に続く
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