妄想という死の棘(とげ)
今回の事件の発端となった女性の度過ぎる嫉妬という問題は、非常に重要な教育的課題の一つで
す。実に、いろいろな教育的問題が内在しているからです。
妄想というのは、単なる誤解ではなく、感情と結びついた自己中心的なものの考え方が、精神病
理的な色彩を帯びたものだと言えるでしょう。
今回の話を聞いて、思い出したのは作家島尾敏雄の『死の棘』です。
参考文献: http://ishibashi.hippy.jp/shohyo/yaginuma.htm 他
学生時代に『出発はついに訪れず』など、島尾の著作を読んだことがある私は、後年になってそ
の舞台となった奄美大島の加計呂麻島を訪れたことがあります。
その島尾の代表作である『死の棘』を、私はなかなか読み通す事が出来なかったことを覚えてい
ます。
息苦しくて救いのない、束縛された出口のない情念の世界を、ヌーボロマンのアラン・ログブリ
エを思わせる無機質な描写(カメラ・アイ)で終始する。
かなり、イライラしながら読み進んだ事だけが印象に残っているのですが、今回の「痴話げんか」
が、あたかも『死の棘』のひな形としての構造をもっていることが分かり、少なからずも父親とし
て衝撃を受けているのです。
女生徒は嫉妬から、事実ではない仮想現実に固執して、毎日のように彼を責め立てた。
気真面目な息子はそのような事実はないと説明し続けたけれども、いくら言っても納得しない。
女生徒は、彼の軽率な行為が、自分への耐え難い侮辱的行動であるように感じ、許せない。客観的には深刻な問題ではないけれども、感情的に、納得できない部分があるのです。
女生徒は何に納得しなかったのでしょうか。
ここには、男性と女性の気持ちはなぜすれ違いを見せるのか、という問題があります。
プロフの問題そのものは、冷静に考えれば彼女も許せるはずなのです。このバカ野郎と、ひと喧嘩してある程度気が晴れたはずです。
しかし、彼女としてはこの件にこだわり続けなければならない内的な事情があったのでしょう。
この件を突破口にして、あるいは(この件を)盾にして、どうしてもやらねばいけないと思い詰めていることがあったはずなのです。
それは、ほころび始めている(と彼女が感じている)二人の関係の立て直しだったと思います。
簡単に言ってしまえば、以前のようにはLove & Love ではなくなった、と彼女は感じているということですね。これは結婚した女性ならほとんどが経験する3日、3月(みつき)...3年目、という良くあるパターンです。
最近テレビで放送していたモラハラ(モラル・ハラスメント)の被害者である女性は「私にだけ親切で優しかった彼が、結婚したら別人のように無口で、不機嫌。しまいには私を無視する態度をとるようになった」と語っているのを聞きました。
隠しカメラの映像では、帰ってきた夫が不機嫌そうにドアをばたんと閉めたのを、この女性が咎め「小さな子供が驚くから静かに閉めてと、あれほどお願いしているでしょう!」と、口うるさく吠えたてているのです。
この女性は、男性のものの考え方を理解していないために、誤解に誤解を重ねて、「これをやっちゃいけないよ」という対処の仕方をしています。
この夫は空手道場の師範をしている人ですが、精神的にはまだ子供です。妻である女性に、母親であるかのように甘えたい。しかし、子供が出来て、否応なしに父親であらねばいけなくなったという関係性の変化があって、不機嫌になっているのです。マザコン夫、と言ってよいでしょう。
精神的に未熟ですから、男性・性の行動様式をストレートにだしてしまう。
無口になったのも、男の行動は目的志向型、という性格をむき出しにして、パートナーへの配慮
がないというだけのことです。男は獲物を獲得するまでは全力をつくすけれども、狩猟が終われば
女房任せだということです。もっとはっきり言えば、結婚するまでは驚くほどマメになるけれども、
結婚した後はマメでなくなるわけです。
ところが、プロセス志向である女性・性は、自分が愛され、パートナーに支えられているという
ことを常々実感していたいのです。それがないと、気持ちが枯れていってしまう。
しかし、男は愛し合っていることを確認して結婚したのだから、それで十分じゃないか。外人じ
ゃあるまいし、愛してるなんて何度も言わせるな、となります。
けれども、女性は「私は寂しさを感じている。あなたの精神的な支えが欲しいの」と、正しく伝えることが出来ない。何故かというと、この女性も、精神的に子供だからです。
彼女は、自分の本当の気持ちをありのままに見つめて、ありのままに伝えることが出来ず、夫の無神経な行動を非難することで、自分の寂しさを補っているのです。
自分を無視する、と過剰に反応しているのは、彼女がそれだけ子供であることを如実に示しています。
口うるさくあれこれと言いつのる妻に対して、夫はぶち切れて妻の顔面にハイキックを見舞ってしまい、入院騒ぎとなった。お互いに、相手の愛情を求めているのに、二人とも精神的に未熟であったために「憎さ百倍」というむなしい結末を迎えてしまったのです。
話を戻して、息子と女生徒は、同様の状況に合ったわけです。
彼女は自分の気持ちをありのままにみて、ありのままに伝えることが出来なかった。
彼が自分の気持ちを理解せず、踏みにじっている証拠として、プロフ問題を盾にして、彼を非難し、悔い改めさせ、自分に気持ちを向けさせたかった。
しかし、精神的に子供である息子は、「たいした事ではないよ」という対応をとったわけです。
けるども、事を荒立てないようにすればするほど、女生徒は自分の気持ちを甚だしく軽視された、と受け止める。
男性の行動原理は目的志向ですから、大したことでないことを理性的に伝えようとする。
そして、強く非難をされているので、正当に受け止めることができずにこころを閉ざそうとする。
百万言を費やしたところで、コミュニケーションが成り立っていないのです。
双方共に、もどかしい思いを抱いているのですが、相手に自分の思いが伝わっていない。
それで、彼女はさらに非難を増幅していく中で、プロフの女生徒に気があったのじゃないか、と
いう妄想的非難へとエスカレートしていく。
気の弱い息子は、何か分からないけども、とにかく彼女の気持ちを傷つけたという罪悪感を感じ
て、「ごめん」と謝ってしまうわけです。いいかげん疲れた、ということでしょう。
謝ったことで、女生徒は「我慢する」ということで一旦は落ち着いたようです。
息子は、いったい何を謝ったのでしょうか?
旧約聖書では異性を情欲の目で見る事が、すでに姦淫である、とされます。女生徒は、そのようなレベルまで、彼を縛り上げたいのだと思います。
彼は「オトコのスケベ心」という原罪に対して贖罪させられた、ということです。
しかし、内心は「彼女のしつこさにうんざりして」謝っただけですので、真摯に贖罪をする気はなかったわけですね。自分の何が彼女を傷つけたかが、正しく認識されていないので、贖罪のしようがない。わからない、というのが実情に近いでしょう。
ですから、彼女は「やっぱり分かっていない」と蒸し返したのだと思う。
再度蒸し返された息子の方は、「やっぱり分かっていない」ので、自分の気持ちを過不足なく伝えることをしなかった。それだけのコミュニケーション能力が欠如していますので、伝えたつもりでも、伝わっていなかった。そのことに、気づかなかったともいえます。
今回の件は『死の棘』のひな形だ、というのは以上のような私の理解によるものです。
島尾の場合は、神戸市外大の教官を務めながら、実際に妻以外の愛人と付き合ってしまった、という点が異なりますけれども。
この、読むのも息苦しい『死の棘』の世界をかろうじて支えていたのは、表現者としての島尾の過剰な倫理観に他ならない。
島尾は、妻ミホの郷里である奄美大島で、妻と同じカトリックに改宗しています。
戦時中、南方戦線の特攻隊隊長として、この地に赴き、「ヤマトンチュの荒ぶる神」と、その人徳・見識・人間性を尊敬された島尾が、ウチナンチュの教師であったミホと結婚した。
それが、今や正常な家庭は完全に崩壊して、子供たちは「カテイノジジョウ」から、逃げ出してしまう。
この改宗は、愛という美名の下に、カトリック的厳格さで徹底的に糾弾されることも受け入れた、
ということでしょうね。
ミホ夫人は、島尾の行動を探偵を使って監視するだけでなく、周囲の評判や噂を集めて、悪い情報だけを再構築して、あなたという人間はこんなに汚い悪い人間なんだ、と突きつけるのです。心理学的にみれば、二人の関係性は完全にコントロール関係にあることが分かります。
島尾は表現者としての透徹した視点を持っていますので、この状況に対峙しながらも、表現者としてこの常軌を逸した対幻想世界を徹底的に描いて見せた。
それ以外に、彼を支えるものはなかったであろうと思います。つまり、島尾は表現者として、あえてコントロール関係にとどまることを選択し、それを担いきったということです。
しかし一般には、こんな人間関係は決然と断ち切ってしまわないと、共倒れになっていきます。
翻って、精神的に未熟で、社会経験もなく、初めての男女交際である息子には、この「のっぴきならない状況」に適切に対処すべき何もなかったわけです。
女生徒は、口論などの時に交わした携帯メールから、彼が送った許せない部分を記録としてため込み、一つ一つ取り上げて「一生、これ(侮辱して、傷つけたこと)を忘れないから!」と責めるのだそうです。
これは心理学で言うマニュピレーター(ウラで人を操る人)のやる、心理的コントロールのやり方のひとつですね。相手の持つ道徳観や倫理意識あるいは宗教観やヒューマニズムはたまた「愛」といった、神聖にして侵すべからずという大義名分を暗に相手に突きつけて、心理的な脅しをかけるやり方です。
マニュピレーターの特徴の一つに、精神的な加害者であるのに、表面的には被害者として振る舞う巧妙な関係偽装を行う、という点があげられます。
彼は精神的に疲れ、ただ、ただ、途方に暮れるしかなかった。
陸上部の練習でくたくたになり、そのあとアルバイトで疲れ、睡眠時間を奪われる長電話...、いったい何をやってるんだ、と私が叱責することもあります。
『死の棘』の場合、妻ミホが偏執狂に陥るのは「二人だけの世界」のときだけです。第三者がそこにいる場合はパラノイアにならない。
第三者がいる場というのは共同規範意識のある世界ですので、「二人だけの世界」を持ち込むことはタブーである、ということを本質的に分かっているのだと思います。
タブーという言葉はポリネシア語のtapu に由来するものだと、いいます。
「共同体の存立の根拠と、それを脅かすタブーの遵守」は表裏一体の精神・思想構造をしています。
共同幻想としての国家において、対幻想はタブーであり、あくまでも「二人の世界」としてのみ閉じこめておかなくてはいけない、ということです。
島尾の言う「ヤポネシア」という概念は、ポリネシアから琉球弧(沖縄列島)にいたる、南方海洋文化圏を指しますが、ミホ夫人はこのヤポネシアのタブーを深いレベルで身につけていたのかもしれません。
沖縄の、来訪神信仰の場である「御嶽」(うたき)において、祭司を担うノロやユタは女性であり、男子禁制というタブーがあります。来訪神は男性・性であり、海の向こうのニライカナイからやってくる。ノロやユタの女性は、海に向かって対幻想的な儀式を行います。国津神信仰ですね。
対照的に、ヤマトの神は天照大神に象徴される女性神ですので、男が祭司を執り行い女人禁制です。天津神信仰なのです。
どちらにしても、国家という共同幻想は、ある一つの対幻想を元として、成立して、その共同性の存立を守るためには、その中に他の対幻想を許容しないという厳然たるタブーがあります。
このようなタブーの概念は、共同体がある限り必ず存在するものですので、全世界にあるのです。
共同規範意識をもつ学校も例外ではないからこそ、タブーがあるということです。
しかるに、学校はこのタブーがどのようなものであるかという、本質的な部分を明確に把握していないようなのです。
男女交際はどうあるべきかというごく一般論だけしか示しておらず、校内に散見される「二人の世界」というタブーを、見て見ぬふりをしています。
なぜ、このようなあり得べからざる事が、まかり通っているのか?
それは、タブーというものが共同規範意識を腐らせ錆び付かせ、存立を危うくするものであり、排除すべき異物であることを、明確に教育出来ないからに他ならないでしょう。
男女交際というものがオープンになったという社会風潮は、学校としても受け入れざるを得ない。
だがしかし、学校の中では男女がくっついているようなことは、学校としては決して認められないことですよ、ということだけでもはっきりと指導せねばいけないのではないでしょうか。
(8) 教育現場における小児病の蔓延...に続く

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