教育現場における小児病の蔓延
日本人は精神年齢が、西欧人よりも低いと言われます。占領軍総司令官のマーカーサーが「日本人の精神年齢はティーンエイジャー(teen ager)だと言
ったのは有名な話ですね。13teen から19teen がteen ager ですから、未成年だというわけです。
確かに、日本は子供文化の世界だという気がしますが、戦前までの日本は大人文化の世界だった
ようです。
幕末に、アメリカ政府から遣わされて来日した勅使が、日本の抹茶が口に合わず「ミルクを飲みたい」と言ったそうです。
それに対して、牛乳は牛が仔牛に与えるものである。古来、我が国では人が、就中(なかんづく)大人が牛の乳を飲むという習慣が無いので、供することは出来ない、と答えたといいます。
堂々とした、大人(たいじん)の態度です。
ところが、昨今の我が国では、ティーンエイジャーどころか、もっと精神年齢が低い小児病的人間が増えているのではないか、という事柄を数多く散見します。
小児病というのは、豊富な社会経験で多面的なものの見方をするべき大人が、子供のような一面
的で偏った考えに固執することを言います。
かつてのウーマンリブも、女性の権利を社会的に認知させようとしてパフォーマンス的に行われる部分もありましたが、小児病の女性は針小棒大に何でも女性差別だとする行き過ぎたところがありました。
最近では、電車の痴漢摘発免罪問題に、小児病的傾向が指摘されました。
それは、女性の言い分は全面的に採用され、免罪を受けた男性は自分は無実であることを客観的
な証拠を出して証明できないと、ほぼ100%有罪になるという、行き過ぎの問題です。
もともと、この言葉はレーニンが「左翼小児病」という言葉で、新興共産国の行き過ぎた教条主義的共産主義に警鐘を発したところから来ています。中国の文化大革命など、左翼小児病的な行為が問題となりました。
「平手打ちは暴力行為であり、暴力行為は処罰の対象になる」とステレオタイプな言葉しか聞けない先生方とお会いして、小児病的だと感じたのは、このようなことをふと、思い浮かべたからです。
世の中は何でも白か黒かで分けられるものではありません。むしろ、その狭間で、様々な位相にあるのが一般的なことです。ところが、アメリカナイズの影響で、イエスかノーをはっきりさせることが良いことだ、という風潮が広まっています。
暴力だと言っても、程度の問題もありますし、動機と目的も様々です。
そのような複雑な要素を考慮に入れず、一律に暴力行為だというのは、教育的見地からどうかな、
というのが私の疑問です。
以前、「腕白でも良い、丈夫に育って欲しい」というCMが、いじめや暴力を是認しているとやり玉に挙がって、放送されなくなりました。
暴力反対の意識を高めることは当たり前のことですが、このようなCMまで不買運動をちらつかせてストップさせるのは、小児病者の行き過ぎではないかと思います。
このような圧力をかけるのも、れっきとした暴力行為ではないでしょうか。
もう一つは、言葉の暴力という問題があります。
ところが、この問題にも、小児病が蔓延しています。マスコミや放送における禁止用語というのがそれですね。
このような言葉狩り小児病によって、「言葉の暴力」の本当の問題が見えにくくなってしまいました。
女性はだいたいが男よりも口が達者で、しかも女性の論理は感情がらみが多いので、男が論理的
に話しても、辞書的な意味つまり字面通りには受け取らない事が少なくありません。
まともに言い合いをすれば、だいたいは男が負けてしまいます。息子のように言葉が遅く表現も下手な子は、口撃されっぱなしです。そして、今の子は「言ってはならない」とされてきたタブーのようなことも、平気で口に出します。
女性の吐く言葉の暴力は、野放しなのが実に不思議ですね。男が言えばセクハラだと糾弾されま
す。
男というのは、精神的に動揺したり、こころに傷を負ったりすると、黙りこくってしまいます。
自分の殻に閉じこもって、本来の自分を取り戻そうとするのです。時間が解決してくれる。
女性の場合は、まず感情を吐き出してしまわないと、何も始まらない。
鬱積した気持ちを吐き出すと、一息つける。
このままでは、かみ合いませんね。最後は、一触即発です。
そういった男の特質を学んでいない女性は、黙り込んだ男を更に口撃してしまうのです。
男は、十中八九、相手を振り払ってきます。相手が母親であろうが、妻であろうが、恋人であろうが...。
ぶちキレるのです。
父親はよく分かるので、殻に閉じこもった息子にガミガミ言うことはしないものです。それをやって、バットで殴り殺されたという事件は、私の記憶にはっきりと残っています。
殻に閉じこもって、自分を取り戻そうとしている男に対して口うるさく言うと、男は精神的に追いつめられて、本能的な暴発行為を引き起こすということを、女性には分かっていない男の特質として、教えておかないといけません。
このような、人間関係を良好に維持していく基本的な知識を分かっていないことが、同種の事件を何度も何度も引き起こすことになるのです。ほとんど、永遠の課題です。
学校での事件の前、例によって長電話の後、苛立った表情で自分の部屋にこもってしまうことが続きました。
我慢をする時、息子は歯ぎしりをするような、劇画的な表情をします。
今回の件は自己中心的な怒りで、殴る蹴るの乱暴をしたという訳ではありません。
息子は、超未熟児として生まれたせいで、言語能力に劣るところがあります。言葉の覚えが悪く、
語彙も少ないので、自分の意志や気持ちをうまく表現できないのです。
この事件では、「いきなり泣き出されて逆切れした」と反省文に書いているのですが、じっくりと聞いてみると、「逆切れ」ではないのです。
精神的に疲れて、頼むからちょっと放っておいて欲しい、これ以上口うるさくしないで欲しいと思った。
教室の中までやってこられて、泣き出される事態は、非常にまずい、という思いが、頭の中を駆けめぐっていたようです。
余計な事ですが、この女生徒は、泣いて我を通すという育ち方をしていると推察されます。不適切な甘やかしをするのは、おじいちゃん・おばあちゃん子である場合に見られる傾向です。
たぶん、大家族で育ったのでしょう。大勢の前で駄々をこねて、言い分を通すという経験があるのかと思います。
そういう性格的要因があって、大勢の人がいる教室の中で、
恥も外聞もうち捨てて、泣いて息子を屈服させようとした、のではないでしょうか?
結果として、彼女は望み通り、相手を屈服させ謝らせ、後々までこのことを蒸し返して相手をコントロールする材料(話題)にしてくるはずです。これは望ましい人間関係ではないと認識すべきです。
そのようなやり方を、ここでも通用させてしまった、ということは人間教育としては最低な話だと思います。
息子としては、とっさの言葉が出てこない、うまくしゃべれないというコミュニケーション能力の低さが、身振り言語としてのピシャリ!という平手打ちだったのです。
これは、怒りの現れではなく、やめてくれという身振り言語なのです。
多面的に見ていくと、平手打ちと言っても、様々な様相が現れてきます。
改めてお断りしますが、この論考は息子のビンタを擁護するものではありません。もっときめ細かく見て、教育すべきは何かを見分けて頂きたい、ということなのです。
結果だけしか見ないで、暴力だ、暴力行為だと単純に決めつける、教条主義的な学校の対応に、
「豊かな心を育む」などという教育は望むべくもないのかもしれないな、というのが私の受け止め
方です。
絵に描いた餅のような教育理念を、学校の玄関に掲げていても、贋作の掛け軸をお茶の間に飾っ
ている節穴の目の持ち主と、大同小異ではないでしょうか。
教条主義の教条とは、文部科学省の通知あるいは教育委員会の通達のことですね。
机上の論理としか言えない官僚の作文を、現場教師が教条主義的に唯々諾々と執り行う、という
学校の現状は、まさに学校教育に蔓延する小児病シンドロームだと、表現して良いでしょう。
(9) ものの考え方を教えることの重要性...に続く
それに対して、牛乳は牛が仔牛に与えるものである。古来、我が国では人が、就中(なかんづく)大人が牛の乳を飲むという習慣が無いので、供することは出来ない、と答えたといいます。
堂々とした、大人(たいじん)の態度です。
ところが、昨今の我が国では、ティーンエイジャーどころか、もっと精神年齢が低い小児病的人間が増えているのではないか、という事柄を数多く散見します。
小児病というのは、豊富な社会経験で多面的なものの見方をするべき大人が、子供のような一面
的で偏った考えに固執することを言います。
かつてのウーマンリブも、女性の権利を社会的に認知させようとしてパフォーマンス的に行われる部分もありましたが、小児病の女性は針小棒大に何でも女性差別だとする行き過ぎたところがありました。
最近では、電車の痴漢摘発免罪問題に、小児病的傾向が指摘されました。
それは、女性の言い分は全面的に採用され、免罪を受けた男性は自分は無実であることを客観的
な証拠を出して証明できないと、ほぼ100%有罪になるという、行き過ぎの問題です。
もともと、この言葉はレーニンが「左翼小児病」という言葉で、新興共産国の行き過ぎた教条主義的共産主義に警鐘を発したところから来ています。中国の文化大革命など、左翼小児病的な行為が問題となりました。
「平手打ちは暴力行為であり、暴力行為は処罰の対象になる」とステレオタイプな言葉しか聞けない先生方とお会いして、小児病的だと感じたのは、このようなことをふと、思い浮かべたからです。
世の中は何でも白か黒かで分けられるものではありません。むしろ、その狭間で、様々な位相にあるのが一般的なことです。ところが、アメリカナイズの影響で、イエスかノーをはっきりさせることが良いことだ、という風潮が広まっています。
暴力だと言っても、程度の問題もありますし、動機と目的も様々です。
そのような複雑な要素を考慮に入れず、一律に暴力行為だというのは、教育的見地からどうかな、
というのが私の疑問です。
以前、「腕白でも良い、丈夫に育って欲しい」というCMが、いじめや暴力を是認しているとやり玉に挙がって、放送されなくなりました。
暴力反対の意識を高めることは当たり前のことですが、このようなCMまで不買運動をちらつかせてストップさせるのは、小児病者の行き過ぎではないかと思います。
このような圧力をかけるのも、れっきとした暴力行為ではないでしょうか。
もう一つは、言葉の暴力という問題があります。
ところが、この問題にも、小児病が蔓延しています。マスコミや放送における禁止用語というのがそれですね。
このような言葉狩り小児病によって、「言葉の暴力」の本当の問題が見えにくくなってしまいました。
女性はだいたいが男よりも口が達者で、しかも女性の論理は感情がらみが多いので、男が論理的
に話しても、辞書的な意味つまり字面通りには受け取らない事が少なくありません。
まともに言い合いをすれば、だいたいは男が負けてしまいます。息子のように言葉が遅く表現も下手な子は、口撃されっぱなしです。そして、今の子は「言ってはならない」とされてきたタブーのようなことも、平気で口に出します。
女性の吐く言葉の暴力は、野放しなのが実に不思議ですね。男が言えばセクハラだと糾弾されま
す。
男というのは、精神的に動揺したり、こころに傷を負ったりすると、黙りこくってしまいます。
自分の殻に閉じこもって、本来の自分を取り戻そうとするのです。時間が解決してくれる。
女性の場合は、まず感情を吐き出してしまわないと、何も始まらない。
鬱積した気持ちを吐き出すと、一息つける。
このままでは、かみ合いませんね。最後は、一触即発です。
そういった男の特質を学んでいない女性は、黙り込んだ男を更に口撃してしまうのです。
男は、十中八九、相手を振り払ってきます。相手が母親であろうが、妻であろうが、恋人であろうが...。
ぶちキレるのです。
父親はよく分かるので、殻に閉じこもった息子にガミガミ言うことはしないものです。それをやって、バットで殴り殺されたという事件は、私の記憶にはっきりと残っています。
殻に閉じこもって、自分を取り戻そうとしている男に対して口うるさく言うと、男は精神的に追いつめられて、本能的な暴発行為を引き起こすということを、女性には分かっていない男の特質として、教えておかないといけません。
このような、人間関係を良好に維持していく基本的な知識を分かっていないことが、同種の事件を何度も何度も引き起こすことになるのです。ほとんど、永遠の課題です。
学校での事件の前、例によって長電話の後、苛立った表情で自分の部屋にこもってしまうことが続きました。
我慢をする時、息子は歯ぎしりをするような、劇画的な表情をします。
今回の件は自己中心的な怒りで、殴る蹴るの乱暴をしたという訳ではありません。
息子は、超未熟児として生まれたせいで、言語能力に劣るところがあります。言葉の覚えが悪く、
語彙も少ないので、自分の意志や気持ちをうまく表現できないのです。
この事件では、「いきなり泣き出されて逆切れした」と反省文に書いているのですが、じっくりと聞いてみると、「逆切れ」ではないのです。
精神的に疲れて、頼むからちょっと放っておいて欲しい、これ以上口うるさくしないで欲しいと思った。
教室の中までやってこられて、泣き出される事態は、非常にまずい、という思いが、頭の中を駆けめぐっていたようです。
余計な事ですが、この女生徒は、泣いて我を通すという育ち方をしていると推察されます。不適切な甘やかしをするのは、おじいちゃん・おばあちゃん子である場合に見られる傾向です。
たぶん、大家族で育ったのでしょう。大勢の前で駄々をこねて、言い分を通すという経験があるのかと思います。
そういう性格的要因があって、大勢の人がいる教室の中で、
恥も外聞もうち捨てて、泣いて息子を屈服させようとした、のではないでしょうか?
結果として、彼女は望み通り、相手を屈服させ謝らせ、後々までこのことを蒸し返して相手をコントロールする材料(話題)にしてくるはずです。これは望ましい人間関係ではないと認識すべきです。
そのようなやり方を、ここでも通用させてしまった、ということは人間教育としては最低な話だと思います。
息子としては、とっさの言葉が出てこない、うまくしゃべれないというコミュニケーション能力の低さが、身振り言語としてのピシャリ!という平手打ちだったのです。
これは、怒りの現れではなく、やめてくれという身振り言語なのです。
多面的に見ていくと、平手打ちと言っても、様々な様相が現れてきます。
改めてお断りしますが、この論考は息子のビンタを擁護するものではありません。もっときめ細かく見て、教育すべきは何かを見分けて頂きたい、ということなのです。
結果だけしか見ないで、暴力だ、暴力行為だと単純に決めつける、教条主義的な学校の対応に、
「豊かな心を育む」などという教育は望むべくもないのかもしれないな、というのが私の受け止め
方です。
絵に描いた餅のような教育理念を、学校の玄関に掲げていても、贋作の掛け軸をお茶の間に飾っ
ている節穴の目の持ち主と、大同小異ではないでしょうか。
教条主義の教条とは、文部科学省の通知あるいは教育委員会の通達のことですね。
机上の論理としか言えない官僚の作文を、現場教師が教条主義的に唯々諾々と執り行う、という
学校の現状は、まさに学校教育に蔓延する小児病シンドロームだと、表現して良いでしょう。
(9) ものの考え方を教えることの重要性...に続く

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