学校教育と男女交際(9) ものの考え方を教えることの重要性

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ものの考え方を教えることの重要性

 つらいと視野狭窄に陥る

 私たちの「ものの考え方の偏り」にはいくつかのタイプが見られます。

・根拠に乏しい決めつけ
・黒か白かのデジタル思考
・こころのフィルターに無自覚
・拡大解釈と過小評価
・針小棒大な事を普遍化してしまう
・すべき、しなければならない強迫観念
・何でも自分のせい
・感情に引きずられた判断
・悪い方に考えて、それを実現(引き寄せ)してしまう

 このような偏ったものの見方が常軌を逸すると、問題になるわけですね。


 それでは、自分のものの見方・考え方の偏りを修正していくにはどうしたらよいのでしょうか?
この問題を、少し考えてみましょう。



 自分の思考を整理する

 検証する
・    まず判断停止...決めつけをやめる。

 人の性格を表す言葉に「十人十色」というのがありますが、性格同様に人の考え方というのもそれぞれのフィルターのようなもの、つまり偏りがあります。
 それをよく、色眼鏡でものを見る、といいますね。

 普通は、それでもかまわないのですが、何かに腹を立てたり、気持ちが沈んだりした時は視野が狭くなりますので、著しく偏った考え方に陥りがちです。

 特に生真面目な人ほど規範意識が強いので、固定的な考えに囚われていく癖があるのだと、はっ
きりと自覚しておくことが必要です

 自分のものの考え方の傾向を理解して、前提条件やとらわれ、あるいはこだわりを捨てることが必要なのです。
 このことをまず、思い出して頂きたいのです。


 精神的に疲れたなと感じたり、つらい気持ちになった時は、あれこれ悩んで堂々巡り思考になっているのをやめましょう。

 やめ方はいろいろあるのです。
 
(1) 考えることをやめる

 頭を働かせずに、体を働かせる

 ヨガの故沖正弘導師は、断食道場の入所者にジョギングや作務を行わせて、余計なことを考えるいとまを与えませんでした。その時、その時やるべき事に全力を注がせて、一日が終われば倒れるように寝込んでしまう、という日課を施したのです。

 それは、余計なことを考えるだけのエネルギーを残さない、という考えからです。エネルギーが有り余っているから、問題行動を起こしたり、余計なことを思い煩うということですね。
 家庭の中でやるとしたら、家の内外を徹底的にお掃除することが、一石二鳥でしょうね。

 精神的に疲れていると、部屋の中が乱雑になっているものです。放っておくと、ますますだらしなくなります。

 特に玄関やトイレを徹底的にキレイにすると、運気が良くなるそうですから、せっせと掃除道を極めてください。ただし、勘違いしてはいけないのは、掃除は目的ではなく手段に過ぎないという点です。生活していれば汚れるのは当然ですので、神経質になっては本末転倒だということをお忘れなく。

 若い人なら、ジョギングも良いです。運動をすることで、大脳生理学的にもストレス反応が軽減されることが分かっています。体を動かして良い汗をかくと、気分も爽快になりやる気が湧いてくるものです。



(2) 判断停止をする(「先入見」をやめる)

 社会生活をしている以上、体を働かせる状況にないことの方が多いはずです。
 その場合は、思い悩む元になっている自分の判断を、ちょっと待て!といって、意識的に停止することが必要です。

 E・フッサールの「現象学」でいうエポケー(判断停止)がこれにあたりますね。

 個々人が持っている考え方の枠組み(偏り)を「先入見」であるとして、「ちょっと待った」と差し戻し(現象学的還元)、認識と事象との関係に目を向けなさい、という考えです。
 哲学者デカルトの「われ思う、故にわれ有り」(ラテン語でCogito, ergo sum)という言葉は有名ですが、デカルト以前は「自分の外部世界認識=実在の外部世界」という認識があったわけです。

 いまでも、一般の人はこのレベルでものを考え、他者と会話をしたり論議をしているわけです。
しかし、最初に述べたように人は十人十色の色眼鏡でものを見ていますので、ただ一つの外部世界
が、人それぞれ違って認識しているということです。
 デカルトはそのような認識をすべて疑い、排除して、対象を見ている自我意識だけは疑い得ないものだとしたわけです。

 しかし、認識論的な限界をもつデカルト哲学を、フッサールは「反省以前的コギト」(この用語はサルトル『存在と無』から)である」として、認識体験、認識の意味、認識対象、この3つの相関関係を解明する現象学を示したのです。

 難しいことは忘れてもかまわないですから、

「人の考え方は十人十色、
 なにか問題があった時は自分の考えに囚われないで、
 判断停止」。

 これだけは、絶対に忘れないで頂きたいのです。



(3) 現実をありのままに見る叡智

 私は、他者の愚痴などを聞かされると、「幸福も不幸も、こころの中にしかないんだよ」とアドバイスをします。

 その人の話に同調することなく、それに反する事例を挙げて、
「相手を変えようとしても無理がある、過去の事実も変えることは出来ない、変えられるのは自分の受け止め方だけです」
 ...と突き放しますので、天の邪鬼だと言われることもあります。


 仏陀は初転法輪(悟りを開いた後の、初めての説教)において、

・人の迷いの実態は苦であること。
・その苦は、苦として外界にあるのではなく、自分がそれをどう受け止めるかによって違ってくること。
・執着がもたらす「煩悩」こそがすべてを苦と受け取らせる原因であること。
・本来、執着すべきでない自己に執着することを捨てて、苦を滅した境地が悟りである。

 ...という、四諦(したい)をバラナシの鹿野苑(サルナート)において説きました。

 西欧的分析哲学が20世紀になって到達した認識論を、紀元前4?5百年という時代の若きシッダールタが説いて、「現実のありのままの姿(実相)を観じていく者」という意味の如来という言葉を使ったのです。


 このすばらしい東洋的直観に敬服せざるを得ません。

 私も、シッダールタが出家した同じ齢(よわい)に、運転手付きの公用車に乗る虚妄の生活を捨てて、バラナシの中心部にあるDasashwamedh Ghat(ダサスワメート・ガート)という、ガンガの沐浴場の近くに部屋を借りて、シタールの修行に励んでいたことを思い出します。

 仏陀の生誕地からバラナシに至る途中で荷物を盗まれて何もなし、という体(てい)で、この聖地に入ったということも、意味のあることだったかもしれません。

 サドゥー(修行者=沙門)同然の腰巻き一つで、グル(導師)となるShri R.K.Misura 翁の元で、
徒弟修行を送りました。日本であれば、乞食と見なされるでしょうね。
 Shriというのは、格式の高いバラモンにつける尊称で、師はベナレスヒンドゥー大学の名誉教授でした。

「スッタ・ニパータ」(仏陀の言葉)という、生身の仏陀の肉声を纏めた最古の教典(岩波文庫)を、私は10代後半の頃に愛読していましたので、日本に戻らず足かけ2年も世捨て人になっていたのは、ごく自然な成り行きだったといえるでしょう。


 私が師から学んだ教えの一つに「無私の精神」というのがあります。

 インド古典音楽はラーガと呼ばれ、原義は「こころを彩るもの」という意味があります。
 楽曲の音は、「ナーダ」といい、「ナーダ・ブラフマ」つまり、楽器の音は天の声、という考えです。

 師は、「こころを無にしなければ、天の声がこころの中に入ってこないぞ」と言い、お前の心は明鏡止水がごとし、と評価して頂きました。

 無私にならなければ、ありのままのことを、ありのままに受け入れることはできない、という事ですね。



(4) 多面的にチェックすること

 仏陀の教えは透徹していますので、実践的なものではあっても、できないというのが俗人の悲しさですが、そのすばらしい認識論だけは忘れて欲しくないと思います。

 ここからは、思弁哲学ではなくプラグマティズム的に考えていきたいと思います。
 原理原則はしっかりと押さえ、プラグマティックに実践していきましょうというのが私の流儀です。

 チェックすべきポイント

 1) 自分がそうだと思いこむ根拠は何か?
 2) それを証明する事実にはどういうものがあるか?
 3) それに反する事実から目をそらしたり、矮小化しているのではないか?


 このような実証主義的なものの考え方は、非常に大切です。
 反省以前的なCogito を反省(自覚)していない人は、伝聞や憶測、想像でものを考えたり、発言したりします。

 まあ、それが日常生活の常態ですので、目くじらを立てる必要はないのですが、何かあった場合にはきちんと手順を踏んで考えないといけないですね。

 誤解で他者を非難するようなことなどは、実社会では厳に慎まなければいけないことですが、ジャーナリズムの世界では俗に「ウラをとる」と言います。裏付けを調べる、と言う意味です。


 こころが苦しい時、ひとは視野が狭くなり、偏ったものの考え方をして、現実そのものではなく頭の中の「仮想現実」を現実だと思いこむのです。

 自殺をしたり、あるいは逆に人殺しをする人の精神状態というのは、まさにこの仮想現実、はっきり言えば「妄想」を現実そのものだと思いこんでいる場合が多いのです。


 これを打破していくには、根拠と事実の検証をきちんとやることが何よりも必要です。
 このような考え方を身につけていないと、妄想の土壺にはまってしまう、ということです。

 先に掲げた3つの手順に従って、しっかりとチェックするようにして頂きたいですね。




(5) 離見の見...相対的に見る

 次の問題は、自分を悩ませているのが「何かの間違いではなく、現実である」という場合です。

 これはしっかりと事実を直視しなければいけないのですが、主観的にならないように注意を払うこと。
 そうするには、自分自身をも対象化して、物事を相対化して見ることです。相対化することで、客観的に見ることが出来るのです。

 いわば、自分を離れて自分を見る、というものの見方をするということですね。
 中世において能を大成させた世阿弥の風姿花伝(花伝書)に、「離見の見」と言う言葉があります。
能の極意は、演じている自分を離れ、(多面的な)観客の視点で自分を見ることが肝要だといいます。


 これは、能などの舞台芸道に限らない、ものの見方の極意だと思います。

 いろいろな気持ちや考えの間で自分が揺れても、時には落ち込むことがあっても、そんなこころが疲れ弱くなった自分を認めてしまっても、自分という存在が崩れてしまわないのは、このような「離見の見」が、じぶんの偏りを修正し、必要なこころの力を引き出してくるからなのです。


 哲学の用語では「対自意識」といって、無自覚な自意識とは区別しなければいけません。

 こころが崩れてしまう人の精神状態は、この客観的に自分を見ることが出来ない状態なのだと言えますね。

「ほらほら、これが僕の骨」と書いた中原中也の詩は、自分を冷酷と思えるほど突き放している目を感じさせます。

 ものを書くと言うことは、自分を客観視する営為ですので、昔の人に倣って日記をつける、ということは自分を救う事にもなるのだと思います。

 自分をも対象化することによって、こころに余裕ができるのです。

 ああ、もう自分は何をやってもダメだ!とあきらめる自分を、それほどのことではないのじゃないか...、と見つめ直す手がかりになるからです。



・そうだとしたら、その結果どうなるのか?
 →どれほどひどいこと・悪い事態が起きるのだろうか?

・そのことは、客観的に見てどれくらい重要なことなのだろうか?


 こういう事を、思いつく限り書き出してしまうと良いですね。

 多くの場合、客観的に見ようとしても出来ていないことが多いものです。

 相対的に自分を見ることで、見えてくる重要なものに、自分の立場というものがあります。

 たとえば、会社員である自分、学校の先生である自分、ということを前提にしていながら、客観的に物事を見ている、と思っている誤謬です。

 現象学的厳密さで考えるなら、甚だしく粗雑な思考なのですが、大多数の人間がそのようなものの考え方をするのです。

 何が問題なのかと言いますと、「帰属意識から離れてものを考えられない」という点です。


 個的意識をしっかりと確立して、自立していることが重要なことなのですが、サルトルが指摘しているように、人は本当の自由を欲しないのです。

 自立していない人間は帰属意識に依存して共同規範という束縛をむしろ、求めているところがあります。学校の先生は、学校への帰属意識に依存して、独自の価値観では考えられない、「業界バカ
の壁を持っている」ということを、少しでも認識しないといけないと思います。

 会社を定年退職した男性が会社ではなく、今度は妻に依存する「ぬれ落ち葉」になってしまう。
還暦を迎える年齢になっても個が確立しておらず、ティーンエイジャーの精神年齢...。

 吉本は共同幻想の擬制に対峙しうるものは個幻想の自立だ、と喝破しています。
 「自立せよ!」と言う。

 遡ってみるに、仏陀は

「ただみずからを灯明とし、みずからを依処(よりどころ)として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行すること」

 ...が大切だ、と言っているのです。


 近年の社会問題として、人間関係やその他いろいろなことで悩んで、自殺する人が少なくありません。

 すでに二千年前の人が分かっていることが、現代の人間には分かっていない。この精神的な後退
現象に、戦後教育の貧困があるなと見るのは、教育への期待しすぎでしょうか。
 

 死ぬつもりなら、むしろ今の立場や人間環境を捨ててしまえばよいのに、と思います。

 今の立場に拘泥しているから、出口なしのように思えるのです。自分が依存しているものを放り出して考えてみれば、死ぬほどのことは何もないことが分かってきます。

 その立場にないものから見ると、バカバカしい事でしかない場合がほとんどです。


 私が仰ぐ師の一人に日本導観の故早島天來(筆名早島正雄)先生がおられます。洗心術という講
話で「ホカしてしまえ」という表現で、つまらん悩みは根こそぎ放ってしまいなさい、というお話をされていました。
 放す(ホカす)という言葉は、禅の用語である放下著(ほうげじゃく『五家正宗贊』)から来ているかと思います。

 仏陀は、人間の煩悩の元は執着(しゅうじゃく)であるとして、その執着を厭い離れよ、と説きました。それが放下ということで、著とは、?せよ、という意味を強める言葉です。


 放下は「ほうか」という読みもあり、この読みが転じたのかと推察しています。

 漢語の素養がない若い世代の人は、放下著といってもピンと来ませんので、「ホカしてしまえ」と自分に言い聞かせた方が、何となく実感できるのではないでしょうか。


・一人で悩まない

 個幻想の自立といっても、社会経験の少ない若い世代には出来ない話ですので、一人で悩まず誰
かに相談しなさい、と無難なアドバイスもしておきます。

 将棋で、「下手の考え、休むに似たり」という言葉があります。多くの引き出し(経験、ものの考え方)を持っていない未熟者の考えは、堂々巡りをしていて何も考えていないに等しい、という意味です。

 他者に相談することで、客観的な反証(そうでないという事実)を得ることが多いのですが、信頼できる人を選ばないといけないですね。天の邪鬼などと逆恨みするのは、小児病なのだと恥ずべき事です。

 この場合、身近な親に相談すれば良いのかというと、必ずしもイエスとは言えないのです。社会常識的な問題であれば、親に相談した方が良いかもしれないのですが、人間関係の悩みなどの相談
に親は不適切なことが少なくありません。

 自分の子供のことになると客観的なアドバイスが出来ない事があるものです。

 とくに、母親は息子をえこひいき、娘には自己同一視・支配感情を持っていることがあり、母親自体が問題の遠因となっていることがあります。

 親離れ、子離れの出来ない親子関係は少なくありませんので、むしろ親から離れることで人間関
係不適応が改善される、というケースもあるのです。

 自らを依処(よりどころ)として、アドバイスをもらうという基本的な姿勢を保持すべきです。


 いずれにしても、親に相談したくないことは、信頼できる上の人に相談すべきで、同級生とか同じレベルの人では気晴らしにはなっても、あまり意味がありません。


・一人で背負わない

 私たちは、精神的に疲れたりすると、「自分はダメな人間だ、能力がないし、人にもバカにされ、だれにも助けてもらえない」というマイナス意識が強くなっていきます。

 これは、大なり小なり、誰にでも一般的に見られる人間心理のあり方ですので、自分の弱さを直視し、認め、助けてもらうという自己開示の勇気が必要です。

 男の場合、「強くなければ男じゃない、優しくなければ男じゃない」みたいな、「こうあるべき論」に縛られて、泣くことも出来ない・怒ることも出来ないという不自由な状況に置かれています。


 我が国には「窮鳥懐に飛び込まば、猟師もこれを捕らえず」ということわざがあります。

 猟師に追いかけられて逃げ場を失った鳥が、その猟師の懐に逃げ込んできたなら、人の情けで捕
まえることはしない、という意味です。


 私たちは、他者に頼られるとうれしいものです。(借金の申し込みはダメですが)

 私なども、「容赦なく厳しか父親ばい」という口でして、自分のことは自分でやれ、自分のやったことは自分で責任をとれ、と子供たちには言い渡していますが、アドバイスを求められればしっか
りとフォローまでします。

 一人で悩まないためには、しっかりと筋の通ったアドバイスをしてくれて、かつ二人三脚的にフ
ォローしてくれる人が必要です。

 しかし、現実問題として、頼りに出来る人というのはなかなかいないというのが現実です。

 本来ですと、学校の先生は頼られて然るべき立場の人間ですが、そのような情熱を持っている先
生はほとんど見あたらないようです。

 面倒なことは避けたいので、さっさと機械的に処理して終わりにしたい、と内心考えている先生に、生徒も頼ろうとは思わないでしょう。そのような気持ちが、伝わってしまっているからです。


 結局、最後に頼れるのは家族しかいないのです。

 親は子供を産まれた時から面倒見ており、何十年間も愛情を注いでいるのです。

 年頃になると、特に男の子は親を疎んじたりして、子供の時のような密着した関係ではなくなりますが、親ほどあなたを心配している人はいない、ということだけは人として忘れてはならないことなのですよ。


 (10)衝動的に人を駆り立てるもの...に続く

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