男女のコミュニケーションの限界(2)

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 前回の話を素材に、すすめて参ります。

 男女のコミュニケーションの限界を解説する前に、そもそもコミュニケーションというのは擬似的理解でかろうじて成り立っているに過ぎない、ということです。
 擬似的という表現が曖昧かも知れませんが、はっきり言えば「誤解」です。

 前回の話で私が提示した問題は3つ、あります。

(1) 言葉と思考の構造...一つの言葉を10人が聞けば「十人十色」となる。
(2) コミュニケーションとは、誤解の上に成り立っている砂上の楼閣。
(3) 男女の言葉は、全く別な世界を表現している。

 さらに、男性・女性の心情を理解する素材として、
・女性が男性を好きになるプロセスとその現れ方
・男性が女性を好きになるプロセスとその現れ方
・相思相愛でも結ばれない理由(ワケ)
 ・自分を肯定し、受け入れることができるかどうか
 ・劣等感は人それぞれ、関係性で違う


 このような領域のことが含まれています。

 今回、取り上げたいのは最も基本的な言葉と思考の構造についてです。

 以前テレビで、お年寄りを登場させてクイズをやる番組がありました。

 お互いにとんちんかんな受け答えをしているのに、会話が進んでいくおかしさがウリでした。
 皆さん、大笑いですが、人ごとではないと思います。

 別ブログのメールマガジンで書いたことを少し引用します。例によって、長くなります。

 人間関係というと、エニアグラムだとかサイコサイバネティクスとか、サイグラムだとか、いろいろな理論と実践法が百花繚乱の分野です。

 しかし、情報を概観してみると、それらのほとんどは人の性格を分類化することを前提にして成り立っている、ということが分かりました。

 エニアグラムを素材に、自分の場合を書いてみたのは、性格を分類化してもどれにでも当てはまるよ、ということを申し上げてみたかったからです。


 その続きを書く機会がないまま、道草記事を書いているうちに、遙か昔のことのようになってしまいました。ブログという形式の問題があるのですが、カテゴリーアーカイブを見ることによって、連続した記事が読めるようになりますので、お知らせしておきます。さて、

 若い人が「**グラムを学んで、他者の気持ちが手に取るように分かって人付き合いが苦手でなくなった」などと書いています。

 けれども、私はどうも違和感を覚えます。

 私は学生の頃から「人それぞれだよ」ということを口癖のように言っていました。 当時のはやり言葉で「レッテル主義」といい、あの人はこうだと簡単に決めつけて、そのようなラベルを貼り付けておしまい、という実に安易な対人観を持つ人間に嫌悪感を持っていました。


 人は他人の体験を理解することはできても、その人が受けた心の痛手や重みについては、自分の尺度でしか計り得ないものです。
 その深みまで理解し得るには、自分もそれだけ深い思いを経験し味わっていなければ、できない話です。


「ひとは監獄・大病・破産を経験しないと一人前にはなれない」といわれるのは、社会的な限界状況・死に直面する経験・経済的な破綻という、人の不幸の最たるものを心底味わっていなければ、他者の痛みを本当に深く理解できないよ、ということです。


 トルストイは『アンナカレーニナ』の冒頭で「幸福な家庭というのはどこも似通っているが、不幸な家庭というのは千差万別である」と書いていますね。

 人を4種類の血液型で分類するのは論外としても、10の性格とか、12支に当てはめた分類とか、要するに人の性格を類型化することを前提にした論理は無理があるな、と思っていました。

 そういうものを勉強して、他者がよく理解できるなどという浅薄な物言いに不快感すら覚えます。


 安易に、他者が分かったなどとは決して言えないのです。

 このような考え方の大前提に「人の性格は変わらない」という考えが反省以前的なコギトとしてあるのです。

 心理学の世界でも「性格は変わる・変えることができる」という考えと、「性格は変わらない」という考えとが両方あって、どちらが正しいかというのは定まっていないということです。

 そもそも、人の心というものを、外側から科学的に分析したり測定したりすることなどできないものですから。

 ですから、学者が正反対の論理を言い合っているというのが、現実です。学者の名前を出したり、心理学ではこういっているという話そのものが、何ら正当性を意味するものではない、というのが本当のことなのですね。

 私は「性格は常に変動している」という考えを持っていましたので、「性格を類型化することを」基盤に置いている、巷に流布している**グラムのたぐいをすべてひっくり返す論理とその実践ノウハウを確立していこうと、方針を定めました。

 (性格が変動するといっても、本人の自覚では自分らしさは全く変わっていないもので、これを自己同一性といいます。)


 しかし、その根拠を示すということが必要なわけですから、マクロビオティック的な宇宙論から始めなければならず、「ちょっとついて行けない」と思われるかも、と思っていました。

 それに代わるものとして、ひとつ紹介したいのがトニーブザンの「マインドマップ」の考え方ですね。

 ブザンによれば、「思考連想連続であり、放射状の構造をもつものだが、連想能力はほとんど無限である」ということです。

 そして、この連想能力というのは、当然のことながらインプット(知識や経験)の量が多い人ほど、広がりが大きいということになります。
 子どもよりも大人の方が、経験量が多い分、連想するものが多くなるわけです。

 それを示す実験として、一つのありふれたキーワードから連想するものをリストアップさせるテストをすると、同じ言葉を連想する確率は極めて低いという結果が出ている。

 つまり、ごく単純な言葉から受けるイメージでも、一人一人不思議なほど違っていて、十人十色どころか千人千色、万人万色なのだという。
 オーバーラップすることはほとんどないのだそうです。

 大変な話です。

 ましてや、複雑きわまりない心を持つ人間では、地球上に同じようなこころあるいは性格だと同類項でくくれる人などいない、ということになりますね。

 まさに、私の口癖のように「ひとそれぞれ」なのです。

 脳の研究の進歩という面から、ひとのこころ無限といえる多様性が明らかにされてきて、私は自分の考え方の礎が確かなものになったという安心感を得ることができました。

 また、自分の性格を作っている過去の精神的体験とそのファクターを再構築する方法として、このマインドマップが使えるということも分かりました。

 自分の精神史を作り、潜在意識に追いやられているファクター(メンタルブロックの要素)を、マインドマップによって明らかにして、現在のものの見方と解釈で再構築することで、自分を変えることができる。それによって、人間関係を変えることができる、という道筋が確立したのです。


 まとめますと、人の思考は言葉でなされるが、それは連想の連続であり、無限の多様性を持っている。性格を形成している基盤は、過去の精神史ですので、その中に閉じこめられているメンタルブロック要素を解放しないと、性格を変えることは難しい。

 逆に言えば、その営為を通じて、性格を本来の自分に戻し、人間関係を改善する道が開ける、ということです。

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