自立とはどういう事をいうのか

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 これまでに無造作に「自立した女」とか「精神的に自立する」という言い方をしてきましたが、お読みになっている方はそもそも自立とは何か?ということが曖昧かな、という気もします。
 自立を分類する場合、経済的な自立、生活の自立そして精神的な自立という分け方をするようです。

 いろいろ調べてみますと、自立という言葉が様々なコンテキストで使われていますので、最初にきちんと定義しておかねばいけないかな、と思います。

 ここでは人間関係について「自立」ということを問題にしていますので、ズバリ言ってしまえば自分の価値観を持って自分の判断で行動できること、というほどの意味だと。

 「日経ビジネスオンライン」の記事に、社会学者の上野千鶴子さんが「"自立"とは"手段"なのか"目的"なのか?」と問う、という話がありました。

 一部を引用させて頂くと、
 「人が自由に自分のやりたいことをして生きられる、そのための手段として自立があるのではないか。なにも自立のための能力すべてを自らが持っていなくてもいい。誰か持っている人から調達すればいい。まず自分がなにをやりたいかが、はじめに問われる...。」

 自立というのは目的ではなく、自己実現のための手段だ、と。

 私は、自立というのは他者(ひと)と良い関係を築いていくための大前提であり、通過しなければならないプロセスなのだ、とこれまでにも書いております。
 自立とはプロセスなのだ、と。

 ですから、「自立のための能力のあれこれ」という発想はしません。

 「自由に自分のやりたいことをして生きられる」のではなく、「自分の責任と判断で、自分の行動をとり、それを支えるに足る膂力(りょりょく)を身につけていくこと、といってよい。
 膂という漢字は肉月(にくづき)の上に旅という字が乗った形で、自分の脚で歩いて行くという象意を持っています。自分の脚で人生を歩んでいく力、それが膂力ということですね。

 上野千鶴子よりも限定的ですけれども、人間関係に限った使用定義ですので、ご了解下さい。

 自立とはプロセスですから、往相の自立もあるし、還相の自立もある、と考えています。

 「知」には、それを獲得していくプロセス(往相)と、それを通り越して、それにこだわりを持たず自ずと具現しているプロセス(還相)というものがあります。

 端的に言えば、泰葉の自立は往相の自立です。
 キャリアウーマンに時たま見られる自立した女性。
 しかし、どこか片意地張っているところがあったり、女を捨てて男化してワーカホリックになっていたりして、心理学で言うパワーストラグルの段階を脱していない自立。
 ...無用に、他者とぶつかったりする。これは自立を獲得していく過程にある、ということですね。

 言ってみれば往相の自立であり、心が囚われています。未だ自由ではない。
 私はそういうものを、望ましい自立だとは思っていません。
 ですから、心理学で言う自立とは意味が違うところがあります。

 とはいえ、何もかも自立しろと言うことはできません。仏教では「融通無碍」といいますが、あらゆるとらわれから脱して自在に考え行動できる、なんて、仏陀ならぬ凡人には無理でしょう。

 上野千鶴子さんは足りないところは誰か持っている人から調達しろ、と。手段の一つとして、割り切れということですね。

 たしかに、自分で何もかもと考えると、禅の修行者のようにならざるを得ず、その事に一生を費やしかねない。
 「犀の角のように、たった一人歩め」という初期仏教のように、修行が目的化しかねません。

 心理学的なカウンセリングでは「自立を手放せ」という指導をするそうです。
 それというのも「(往相の)自立」は、その蔭に隠されたメンタルブロックが人間関係をぎくしゃくさせるから、ということだと考えられます。
 それで、自立を手放して、「相互依存」を認められるようになりなさいと。

 これは、自立という概念を狭義に規定して、自立と相互依存を補完関係と考えているからですね。往相の自立を論じているわけです。

 上野千鶴子が言っていることも、心理カウンセリングが説いているのも、実践的な「方便道」として言っているわけですから、それはそれで良いでしょう。観念的なものではなく、生きていくための英知として語っているのですから。

 私もまた、究極の自立、あるいは本当の自立とは何かということを解き明かしたいわけではありません。そういうものが分かったからといって、自立した人間になれるわけではないからです。

 複雑な現代社会では自由どころか否応なしの生き方をせざるを得ない状況にあるのが普通です。

 その中で、徒(いたずら)に流されるだけの生活を送ったり、何かに悩んだり迷ったときに自分で判断することをせずに他者に依存してしまう、という生き方を改めないと、必ず後悔するよということを申し上げたいわけです。

 メダカのように群れてその中に埋没してしまったり、あるいは迷うと運勢判断に依存したり、ということでは、自分の人生を自分で生きることはできません。年長者や先達のアドバイスを仰ぐことは独断に陥るのを避けるには良いことですけれど、決断は自ら下すこと。

 人間は社会的存在ですけれども、時には孤独を見据え味わうことも必要です。そういう経験があればこそ、他者との良い関係を大事にする気持ちも育ってくる。

 孤独になるのを避けてメダカの群れに迎合しても、群衆の中の孤独の影がつきまとうだけです。

 若い頃、私は時々気晴らしに渓流釣りに出かけました。朝、暗いうちに山道に入っていきますので、先に行く人もなく一日中誰にも会わず、日が傾きかけて薄暗くなり始めた山の中にいると急に家が恋しくなりました。

 「暖かい家と、温かい家族は大切だ」という吉本の詩の一節を必ず想い出し、子どもたちや妻への愛惜の念に駆られて暗い山道を急ぎ足で下るのが常でした。

 これが、仕事帰りに仲間たちと赤ちょうちんでクダをまいたり、グチを言い合ったりしていては、毎度おなじみ終電車で、家に帰っても「風呂、メシ、寝る」の繰り返しにしかならない。
 家族への思いも、妻への感謝も湧くことはないでしょう。

 このようなありふれた1日の中(うち)にも、「往相の自立、還相の自立」のひな形があるわけですね。

 このブログでは、様々な角度から、人間関係における自立の問題を浮き彫りにしていきたいと思います。

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