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    <title>自分らしく生きる野の道</title>
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    <title>あなたのためだからという愛情支配(2) </title>
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    <published>2010-02-18T09:28:46Z</published>
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    <summary><![CDATA[　このご家庭の構成は、図式的にいえば（母子関係）＋（父親）、という分煙家族なのかと想像されます。（伝聞ですから）　分煙といっても実際にそうしているということではなく、家庭内で父親の存在感が薄く、母親が家族をコントロールしている、という意味です。　「父親はベランダでタバコを吸っている光景」が程度の差こそあれ当てはまる家族関係ではないかなという意味で、そう名付けさせていただきます。&nbsp;...]]></summary>
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        <name>小林由典</name>
        
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        <![CDATA[　このご家庭の構成は、図式的にいえば（母子関係）＋（父親）、という分煙家族なのかと想像されます。（伝聞ですから）<br />　分煙といっても実際にそうしているということではなく、家庭内で父親の存在感が薄く、母親が家族をコントロールしている、という意味です。<br />　「父親はベランダでタバコを吸っている光景」が程度の差こそあれ当てはまる家族関係ではないかなという意味で、そう名付けさせていただきます。<br />&nbsp;<br />]]>
        <![CDATA[　さて、話の顛末ですけれど...　<br /><br />　私が息子に「先方の親と話をするので、それまでは彼女と会ったりしないように！」と厳命したところ、当面冷却期間を置くということで当人同士の話がまとまったということです。携帯電話やメールでそういうことをやりとりしたとか。<br /><br />　それで、日をおいて彼女の母親に電話したところ、当人同士で話を収めたので、話し合わなくてよろしいです、と安堵した様子でしたので、会ってお話をすることはありませんでした。<br />　私は、息子の話しか聞いていませんので、裏を取りたかったのですが、母親が断ってきましたので、さほど問題視をしていないこちらとしてはそれで済むならそれでOKだと受け止めました。<br /><br />　電話の話では、交際相手を紹介しなさいと娘に言ったら連れてきて、家で一緒に食事をしたら「おいしい、おいしい」と言って喜んでくれて、素直でよい子ですね、と息子を評しました。<br /><br />　話を聞いて、なるほどねと、思いました。<br />　息子は叔母つまり私の姉にかわいがられて育って、親よりもそっちになついて育ちました。<br />　よそのおばさんに可愛がられる経験値が高くて、同級生の母親にも好かれます。<br />　家出をしたときも、友達の家に行って、ぬくぬくと居候をしているような子です。<br /><br />　私や娘が「よその家で世話になるようなまねはするな」と言って外泊をしないように言い渡したところ、そのおばさんから電話があって、「うちの子は一人っ子で寂しがりやだから、息子さんが我が家に泊まりに来るのを許可して下さい」と言ってきたほどです。<br />　車で１時間以上もかかる距離ですが、わざわざ送り迎えに来たりするのですね。<br /><br />　おばさん族にスポイルされているところが私には目につくので、そういう面を見せると私は厳しくしつけます。<br />　なぜ、彼女が送り迎えしようと考えたのかと言えば、「一年間免許が取れなくて、会社に行く足がないんだよな...」みたいなことを話したのだと思います。<br /><br />　私は、「おまえは無免許運転で罰せられたのだから、その罪を自分で受け止めろ。雨の日でも雪の日でも、自転車で通え。彼女の車で送り迎えなんて事は、懲罰逃れも甚だしいだろうよ。中学生の女子生徒たちだって毎日自転車で、この坂道を毎日上り下りしているんだぞ」と、言い渡しました。<br />　そういう大事なことは、きちんと筋を通させないと、本当に無責任な馬鹿者になってしまいます。<br /><br /><br />　今回も、最初は母親に気に入られてしまい、交際相手の女の子が母親が気に入ってくれたのなら一緒になっても良いのだなと感じたのかと思います。<br />　ところが、娘さんは結婚して親元を離れたいと言い出したために、母親は自分が疎外されたと受け止めたのでしょう。<br /><br />　それで、強引に二人の間に割って入った、と。<br />　それで、二人が別れる話になったようで、めでたしめでたしと安堵した。<br /><br />　<b><span style="color: rgb(255, 33, 102);">あなたのためだから！</span></b><br /><br />　...という<span style="color: rgb(0, 128, 0);">愛情支配</span>。<br /><br /><br />　ここから先は、実際のご家族の話ではなく、<b>問題家庭の家族構成という一般論</b>として話を進めていきます。<br /><br />　母親というのは、大なり小なり子供を支配します。産み育ててきた本人ですから、父親以上に子供と密接になるのは当たり前なのですが、子供が大人になっても支配し続けると、子供は精神的な自立ができないアダルトチルドレン（AC）になってしまいます。<br /><br />　母親自身も子離れのできないコントロール・マザーという妖怪になっていくのです。<br /><br />　その原因はどこにあるかというと、一つは言うまでもなくその母親（おばあちゃん）との関係に由来するのですが、もう一つ重要な要素は夫婦の関係にあるようですね。<br /><br />　夫婦間がぎくしゃくしていると、その度合いに応じて母娘連合を強くして、「父親対母娘連合」という対立あるいは対抗構図を形成していきます。<br /><br />　母親は夫との関係性を娘に投影して、自分のようになってもらいたくないと、自分にできなかったことを娘に期待するか強要するのです。夫婦間の関係性は人それぞれですので、母娘関係もそれぞれの様相を見せ、母娘の数だけ問題が存在するわけですね。<br /><br />　けれども、共通して言えることは、娘をコントロールしていることを母親はだいたいが明確には意識していない。そういうことを他人が指摘しても絶対に認めないところがあります。<br />　これは、たとえばアルコール依存症の人が、いくら周囲から指摘されても、絶対に否認するために解決が難しいというのと同じ要素を持っているということです。<br /><br />　一方で、娘は支配されていることを疎ましくも感じたり、反発を感じたりしながらも、子供の時からじわじわとシームレスにコントロール関係を強化されてきていて、それが自然であるかのように受け入れてしまっているので、容易に反発できない。<br /><br /><br />　ですから、今回の事件も私は、これは当人同士の問題ではなく母親の問題だなと理解しました。<br />　普段は一卵性母娘みたいに仲が良さそうでも、実際はコントロール関係にあり、<b>娘が母親の引力圏から脱出しようとすると</b>「悪いことは言わない。あなたのためを思ってだから」というおきまりの台詞で<b>引き止めにかかる</b>のです。<br /><br /><br />　なぜなら、息子は同性ではないのでそれほど密接にはなれずいずれ親から距離を置いていく（自立していく）ことが分かるけれども、娘は母親を踏み台にしてまで離れていくことはないと分かっているからです。<br /><br />　心理学的にいえば、共依存関係を着々と進めているし、その成果をじぶんで分かっている。<br /><br />　どうしてそんなことをして娘を独立した人格として認められないのかといえば、娘の母親であるということがこの母親の唯一あるいは最後の拠り所であるからなのでしょうね。<br /><br />　端的に言ってしまえば、娘が独立していった後の<b>自分は何ものでもなくなってしまう</b>から、なのです。<br />　身も蓋もない言い方になってしまいますが、母親が役目を終えたとき、もはや家庭内雑役婦としての主婦以上の何ものでもない、という立場になってしまうからですね。<br /><br /><br />　自分のようになってもらいたくないと「父親対母娘連合」をやってきて、いまさら夫との冷えた関係を温め直すことは、料理を温め直すようには簡単ではないでしょう。<br />　家庭の中で、２極対立構造を生み出して家庭の基盤をおろそかにしてきたツケが回ってきたのだといってよいでしょう。<br /><br /><br />　それともうひとつ、こどもは小さいうちにしつけをして、成長するに従って教育者からアドバイザーに変わっていく、つまり子供の自立を準備するというプロセスを踏んでかなかった当然の結果であるということです。<br />　これは、立場を変えれば、母親自身が子供との距離を置き始めて、自分自身がひとりの女として自立をしていくということをおろそかにしてきた当然の結果だと。<br /><br /><br />　父親も、家族を養うために必死で働いてきて、引退してしまうと濡れ落ち葉でしかなくなるのと同じで、自分を犠牲にして子供たちを育ててきた昔の日本的母親ほど、自分自身は何ものでもないという存在になってしまう。<br /><br />　何とも、日本的な精神性の貧困ですね。そういうことを教えられず、知らされず、知らずにあるいは自ら学ばずに中高年になるまで来てしまったという哀れな現実が厳然として立ち現れてくるのです。<br /><br />　そこで気がついて、ひとりの人間、ひとりの女性として自立していこうとするひとは少なく、娘を巻き込んで結果として、共依存関係の娘と様々な葛藤をやりとりして母親としての無用（というより無益・有害）な役割に邁進することになる。<br /><br />　その象徴的な台詞は「私がいなければ駄目ね！」と、一生自立できない娘を作り上げて、娘の人生をねじ曲げ、駄目にし、不幸にしておきながら、形の上では献身的に娘を支える母親という偽善的きわまりない役割を喜々として演じて、最後は突然の如くボケが始まって、一方的にバイバイしていったりし...。<br /><br />　私にいわせると、踏んだり蹴ったり母親だな。<br /><br />　このような、マイナスのプロセスのどこで気づいて脱していくか、母親そして娘のコントロール関係の呪縛は根深いものがあります。<br /><br />　（つづく）<br />]]>
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    <title>あなたのためだからという愛情支配(1) </title>
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    <published>2010-02-17T07:39:17Z</published>
    <updated>2010-02-18T09:22:07Z</updated>

    <summary>　先日夜、全然知らない中高年女性から突然電話を頂きました。　下の息子がお付き合いしている女の子の母親だという。　かなり取り乱していて、話が分かりにくかったのですが、どうやら二人の結婚の問題のようです。 ...</summary>
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        <name>小林由典</name>
        
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        <category term="005 母子関係の諸問題" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[　先日夜、全然知らない中高年女性から突然電話を頂きました。<br />　下の息子がお付き合いしている女の子の母親だという。<br /><br />　かなり取り乱していて、話が分かりにくかったのですが、どうやら二人の結婚の問題のようです。<br /> ]]>
        <![CDATA[　どうも最近息子の行動から、誰かと付き合っているようだとは感じていましたが、まだ20歳前ですしそんな話とは縁がないと考えておりました。男の子の交際相手が誰なのか、いちいち父親が口だしすることではないというスタンスですし...<br /><br />　ところが、相手の女の子は母親に結婚すると言い張っているらしい...。<br />　それで、母親がびっくりして、交際相手の親である私に電話をかけてきたようです。<br /><br />　わが家に来て、話がしたいという。<br />　私は「いいですよ。その前に、息子に話を聞いて、詳細を確認しますので、改めてこちらから連絡を差し上げます。」と言って、電話を置きました。<br /><br /><br />　本人たちはいざ知らず、母親が自分のことのように取り乱していましたので、少し冷静になっていただかねば話にはならないでしょう。<br /><br /><br />　翌日は、ようやく決まった息子の就職先の初出社日です。<br />　人生の中で何度もあることではない重要な節目の直前に、いつも息子は不祥事を起こしてそれを台無しにしてしまいます。<br />　深夜になっても帰ってこない息子に怒りを感じて電話をかけ、「今どこにいるんだ！」と詰問すると、何と家にいるではないですか。明日は早いので、就寝していたようです。<br />　ナイトランプをつけずに寝るタイプなので、部屋にいないと勘違いしておりました。<br /><br />　バイクの無免許運転で補導されたことがあり、免許を取得できない状態にある息子を真冬のこの時期は、当面送り迎えしないといけないので、翌朝は車に乗せて初出社となりました。<br /><br />　それまでのアルバイトとのからみで、あと３週間程度は半日出勤ということでしたので、昼過ぎに迎えに行き、帰りの車中で息子の話を聞きました。<br /><br />　交際相手はアルバイトをしている20歳の女の子で、息子の就職が決まったのを機にその会社近くのコンビニに勤めを変えて、車で通勤している彼女が同伴出勤をしようという話になったようです。<br />　それで、彼女の家の近くにあるマンションを借りて一緒に住もうという話を進めていたようです。<br /><br />　けなげというか、現代っ子的合理主義なのか。<br />　田舎町ですから彼女としては結婚して一緒に住むという筋を通して母親に了解を求めたようです。<br />　<br /><br />　一方、息子はいつも既成事実が露見してから事後承諾をもらうというやり方ばかりしますので、私は厳しくしかりつけます。<br />　息子の方は温度差があるようで、高校を卒業したばかりで結婚なんて考えてはいないようでした。<br /><br />　「おまえはあと10年たっても社会的に一人前になれないから、あと15年は結婚なんてあり得ないぞ」と言うと、「15ねんでも一にんまえにはなれないかもしれないと思っている」と息子は答えました。<br />　（彼の書く文は９割方はひらがななので、話もひらがながふさわしい）<br /><br /><br />　当人同士に相当な温度差があるようだし、親の考え方も正反対といって良いほど食い違っています。<br /><br />　「おまえ、付き合っている女の子が結婚という言葉を言い出したとき、曖昧な態度でごまかすと後になって結婚詐欺で訴えられるぞ！その気がないならないとはっきり言って、それでもいいというなら付き合ってもかまわん。嘘はつくなよ。結婚詐欺だからな。おまえにはそういうところがあるから」と、あからさまに言いました。<br /><br /><br />　女の子の母親は電話での話の中で、<br />　「男手で子供さんを育ててきて、卒業したばかりというのに結婚をされたら、いろいろあてにしていることもおありでしょうから...」という言い方をしました。<br /><br />　残念ながら、私は父親として子供を引き止めるような考えはまったく持っておりません。<br />　作夏の交通違反の時に、「出て行けこの野郎！しかし、成人式を済ませるまでは警察沙汰を起こして親が呼び出されるようなまねは絶対にやるな」と厳命したくらいですから。<br /><br />　息子は着替えをバッグに詰めて出て行こうとしましたので、「二度と帰ってくるなよ」と駄目を押しました。<br />　「分かったよぅ！」と返答して自転車に乗って出て行きましたけれど、10日くらいで舞い戻ってきましたね。<br /><br />　この子が成人した暁には、私は子育て親業は終了。<br />　はれて、相聞歌のやりとりができるような女性と恋愛したいな、くらいに考えていますので、子に取りすがる理由などありません。<br /><br />　でも、この女の子の母親はわがことのように取り乱し、子供たちの交際に割り込んできて、相手の家まで押しかけてこようとしています。<br />　いくら娘の親だとしても、介入しすぎているのではないかと感じました。<br />　私ならば、娘に必要なアドバイスをして、あとは彼女の判断に任せます。自分でやったことは自分で始末しろというのが流儀ですから。<br />　親が出て行ったのでは、責任感が育たないし、精神的な自立をはたせない。<br /><br /><br />　私は娘の交際相手が誰なのか詮索はしませんけれど、この人と結婚するといって連れてくれば会うでしょう。<br />　けれど、「お嬢さんを下さい」などというくさい台詞を言われたならば、「娘は犬猫ではないから、親だといえどあげても良いなどというつもりはない」と言う台詞を用意しています。<br /><br />　結婚は当事者双方の合意で成立するもので、親の思惑で左右すべきではないし家同士がくっつくものではない。<br /><br />　娘には、ことあるごとに男の見方を教えているし...。<br />　それでも、だめな男と恋に落ちるかもしれない、けどね。<br />　彼女には彼女の人生があるのだから、自分で判断しなければいけないし、そうしなければ悔いが残りかもしれない。<br />　「われ、事において後悔せず」という宮本武蔵の言葉を教えておこうと考えています。<br /><br /><br />　それで、息子には「結婚するつもりがないのに、女の子と付き合うな」などとは、言う気はありません。<br />　そんなことを言う馬鹿親父は、今時いないでしょう。<br /><br />　今回は相手の母親が騒いでいますし、それだけ心配をしているようですので、息子には「どんな相手にも親がいて心配をするのだから、無断外泊をしたり、深夜まで連れ回すようなことはするな！社会常識の範囲、といってもそれが分からないからこういうことになるのだから、夜10時までに帰宅させるとか、ルールを決めてきちんと守るようにしろ」と言い聞かせました。<br /><br />　まだ未成年ですから、保護者責任がありますので。<br /><br />　そのうえで、父親としての訓辞をたれることにしたのです。<br /><br />　「世間一般では、母親を見ればその娘の将来が分かる、といわれるけれど、私に言わせれば母親を見ればその娘自身の精神構造が分かるのだ」と。<br /><br />　父親と子供たちの関係は単純で、いかにして子供たちを社会に送りだそうか、という一点だけを押さえれば理解できる。<br />　けれども、母親と子供たちの関係は一筋縄ではいかないし、特に母と娘は結びつきが強いし、ねじれていたりこんがらかったりしているから注意をするように。<br /><br />　このお母さんは「あなたのためだから」という台詞で彼女を愛情支配しているようで、子離れができていないぞ。<br />　それで、彼女の方は母親に愛情と同時に反発や疎ましさ、女のいやらしさを感じているな。親元を離れて、近くのマンションでおまえと住みたいと考えた裏には、親から離れたいという願望が潜んでいるはずだ。<br /><br />　けれども悪いことに、お母さんは自分のことのように取り乱しているところを見ると、俗に「一卵性母娘」と言われるように娘を自己同一視しているようで、一生娘につきまとってありとあらゆる場合に介入してくるはずだ。<br />　親だから、そういうことをやっても良い権利がある、としか思っていないだろう。<br /><br />　「彼女は素直でイイ子なんだろう？」と訊ねると、彼女の家に招かれて行ったときに、お母さんがそういう話をしていた...<br />　...と、ボソッと息子は答えた。<br /><br />　私は、彼女の家の家族構成とその有り様が瞬時に了解できた気がしました。<br /><br />　（続く）<br />]]>
    </content>
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    <title>「自己投影」と「トラウマ」の代償行為</title>
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    <published>2009-12-15T11:21:21Z</published>
    <updated>2010-02-17T07:36:38Z</updated>

    <summary> 　私たちの人生、経験を糧に教訓を得るということが、ある意味で大人になることの大きな要素ですが、内省的に経験からプラスの教訓を学ぶことができず、トラウマになる人も少なくないように思う。　...</summary>
    <author>
        <name>小林由典</name>
        
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        <category term="001 自分とは：性格と人格の形成" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[ 　私たちの人生、経験を糧に教訓を得るということが、ある意味で大人になることの大きな要素ですが、内省的に経験からプラスの教訓を学ぶことができず、トラウマになる人も少なくないように思う。<br />　<br />]]>
        <![CDATA[　トラウマ（trauma）とは、精神的なダメージが後々に、精神的な障害をもたらす（フロイト「精神分析入門」1917）ということで、精神的外傷というコンテキストで使われることが一般的なようですね。<br /><br />　問題なのは、その精神的な障害がどのような形で現れるか、ということが本人にも自覚されない、あるいは他者には容易に理解しにくいということですね。<br /><br />　そして、その障害の現れ方は実に多種多様、人それぞれだということですね。<br /><br />　わたしは心理カウンセラーではありませんから、客観的な臨床例を挙げることができませんので、自分の体験に即して、話を進めていこうと思います。<br /><br /><br />　話は延々と続いてしまいそうですので、ここでは概論的な事を明示しておこうと思いますが、トラウマにどう対処していけばいいのかということを考えて欲しいということが基本路線です。<br /><br />　過去の事実は、変えることはできませんが、その事実と自分の感情を直視し、分別して、解釈の仕方を変えるということは可能です。<br /><br />　解釈の仕方を変えるためには、価値観を変えなければなりません。<br />　価値観が異なれば、自分の経験に対する理解あるいは受け入れ方も異なって当然ですね。<br />　その人にとっての、経験の意味合いが違ってくるわけです。<br /><br /><br />　アメリカ的なプラス思考というものも、価値観を変えることの一つに過ぎません。<br />　実は、マイナス思考でもかまわないものなのですね。<br />　要は、自分が心の底から納得できるものでないと、結局うまくはいかないものです。<br />　付け焼き刃の、「...のつもり」では、だめです。<br /><br />　人間、修羅場を経験していないと根性がすわらない、とかいわれますけれど、にっちもさっちもいかないところに投げ出されでもしなければ、深くて重い実感をともなった思考に至るのは難しい、ということなのでしょう。<br /><br />　以前に触れたかと思いますが、植木等の「スーダラ節」ですね、「分かっちゃいるけどやめられない」という歌詞。これは決してプラス思考とはいえないマイナスな思考のようです。<br />　けれども「やめられない、やめられない」と悩むよりは、「分かっちゃいるけどやめられない」というのが人間の本性なのだと理解すれば、それでイイじゃないかという気持ちになれる。<br /><br />　自己の破滅に至るような [ マイナス３ ] の思考を [ マイナス１ ] くらいに変換できれば、自殺とかね、そういう事態には至らないようになる。心が少し軽くなるはずです。<br /><br /><br />　これをやっていくためには、正しい手順があって、<br /><br />　(1) 価値観を変える→(2)過去の事実を直視する→(3) 解釈の仕方を変える→(4) 過去の経験を再構築する<br />　<br />　...というプロセスを踏む必要があるだろうと思う。<br /><br /><br />　イヤなことは早く忘れたいというのはごく自然な心理であり、アドバイスをしてくれる身近な人も「早く忘れてしまいなさい」とかいいます。<br />　しかし、イヤな思いをそのままにして無理に忘れようとすると、潜在意識にイヤな感情だけが送り込まれて、様々な心理的適応障害のよな形でその後の人生に悪影響をもたらすものです。<br /><br />　イヤなことを無理に忘れることは、そのような落とし穴に落ちることになるので、なによりもきっちりとケリをつけることが大切なことです。<br />]]>
    </content>
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    <title>逆立ちした「自己投影」</title>
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    <published>2009-11-11T02:23:59Z</published>
    <updated>2010-02-17T07:32:29Z</updated>

    <summary> 　以前に取り上げました「学校教育と男女交際」についての、新たな展開がありましたので、少し考えてみたいと思います。　女生徒の過剰な妄想はどこから来たのか？ということの一端が、図らずも明らかになったようです。 ...</summary>
    <author>
        <name>小林由典</name>
        
    </author>
    
        <category term="003 男女・夫婦関係の諸問題" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[ 　以前に取り上げました「学校教育と男女交際」についての、新たな展開がありましたので、少し考えてみたいと思います。<br />　女生徒の過剰な妄想はどこから来たのか？ということの一端が、図らずも明らかになったようです。<br /> ]]>
        <![CDATA[　二人は事件後、双方の親が相手との付き合いをやめさせたということもあり、卒業後は別々の道に進み、以後はそれぞれ別の人と付き合っています。<br /><br />　彼女は中学時代の部活の先輩でありコーチをしていた男性と付き合い、ある「一夏の経験」を話したという。<br />　それは息子と彼女との「小さな諍い」の前に起こったものです。<br /><br />　同じ部活であった二人は、他の部員とともに顧問の先生に引率されて、東京世田谷のグラウンドで開催された関東ブロック大会に出かけました。<br />　息子は県大会の成績から出場資格を得てのエントリーです。<br />　彼女は出場資格はなく、臨時のマネージャー役を顧問の先生に指名されての同行ということでした。<br /><br />　大会は二日間行われ、選手は競技終了後帰宅したのですが、顧問の先生は現地のホテルに宿泊。<br />　マネージャー役の彼女はその夜、顧問の先生に酒の相手をさせられたあげくレイプされたという。<br />　この先生は、息子にも学校関係者にも口外しないように口止めをしたようだ。最初からそのつもりで、彼女をマネージャー役に指名したのだと、あとで分かったのだ。<br /><br />　この事件を知った中学校のテニス部コーチは憤慨して、高校に抗議をしたところ、校長も当の先生も事件のもみ消しを図り、息子のところにも電話とメールで一切口外しないように口止め工作をしてきた。<br /><br />　息子の問題で学校と話し合って、教育理念などあって無きがごとしであることを痛感していましたので、告訴をして裁判に訴えない限り口をぬぐってしまう人たちであることは明白です。<br /><br />　事実、彼女が傷つくだけですので、裁判にもならず、レイプ犯の教師も注意処分だけでうやむやにされてしまいました。<br />　名ばかりの教師たちを、まともに相手にするのは徒労ばかりですから、あえて追求はしません。<br /><br /><br />　ここで取り上げたいのは、その後の彼女の情緒不安定の問題ですね。<br />　彼女はひとりで悩んでいたのでしょう。<br /><br />　本来は、母親に相談できれば良いのですが、それができにくい親子関係だったかと思われます。<br />　かといって、学校関係者に打ち明けようにも、校長以下自分たちの体面を守ることしか考えないような人たちばかり。<br /><br />　息子にも打ち明けられないし、打ち明けたならば終わりになってしまうだろうという畏れがある。<br /><br />　彼女には責任のない事件だけれども、大きな負い目を感じて悩んだようです。<br />　その思いがどうなったのかというと、息子のちょっと不注意な行動を徹底的に咎めることで、自分と同じような精神的負い目を負わせ「あんたも私も同じだ」という立場に引きずり下ろそうとしたのではないかと思う。<br /><br />　これは悪い意味での<b>自己投影</b>の一種ではないだろうか？<br />　本来の自己投影というのは、片想いなどに見られるような、自分の理想像を相手に被せることで実態以上のすばらしい虚像を相手だと思う意識のあり方です。<br />　けれども、<b>マイナスの自己投影</b>もあり、本来は自分が持っている自己嫌悪しているものを相手のどこかに見いだして、それを相手の全人格であるかのように敷延して、その相手を非難したり嫌悪したりする。<br /><br />　あえて区別するために、このマイナスの自己投影を「逆立ちした自己投影」ということもあります。<br /><br />　彼女は、自分の負い目と同じ要素を息子の軽率な行動に投影して、「一生、この事（侮辱行為）を許さない！」と、人生の一大事のごとく咎めることで、自分の負い目の世界に引きずりこもうとしたのではないかと思う。<br /><br /><br />　このような行動は、ほとんど自分で意識しないでなされることがあり、女性性のものの考え方の特徴ではないかなと私は感じる。男でも、内省的でない幼児性の強いひとにこの傾向が見て取れます。<br /><br />　私の経験でも、いわれのない、あるいはささいなことに目くじらをたてて針小棒大な非難を受けたりすることがありますが、十中八九は「あんたに言われたくない」というものだ。<br />　つまり、そう言う本人がまさにその通りの人間なのに、自分のことを全く棚に上げて他者を非難する。<br /><br />　想像するに、自分が他のひとから指弾されている事柄を、別のひとにすり替えることによって、傷だらけになった自尊心や自信を回復しようという補償行為の一種なのかと思う。<br /><br />　常識で、あるいは冷静に考えればたいしたことがないはずのことに、ことさら拘泥して、異常に咎める...<br />　他者には妄想としか思えないことの背後に、このような逆立ちした自己投影などが潜んでいた、ということになる。<br /><br />　まっとうな人間ならば、その理不尽さに腹を立てるだろう。<br />　ささいなことを針小棒大に敷延して、全人格を否定するような対応をされたならば...。<br /><br />　<br />]]>
    </content>
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    <title>自立とはどういう事をいうのか</title>
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    <published>2009-09-28T20:48:12Z</published>
    <updated>2010-02-17T07:37:30Z</updated>

    <summary> 　これまでに無造作に「自立した女」とか「精神的に自立する」という言い方をしてきましたが、お読みになっている方はそもそも自立とは何か？ということが曖昧かな、という気もします。　自立を分類する場合、経済的な自立、生活の自立そして精神的な自立という分け方をするようです。...</summary>
    <author>
        <name>小林由典</name>
        
    </author>
    
        <category term="001 自分とは：性格と人格の形成" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[ 　これまでに無造作に「自立した女」とか「精神的に自立する」という言い方をしてきましたが、お読みになっている方はそもそも自立とは何か？ということが曖昧かな、という気もします。<br />　自立を分類する場合、経済的な自立、生活の自立そして精神的な自立という分け方をするようです。<br /><br />]]>
        <![CDATA[　いろいろ調べてみますと、自立という言葉が様々なコンテキストで使われていますので、最初にきちんと定義しておかねばいけないかな、と思います。<br /><br />　ここでは人間関係について「自立」ということを問題にしていますので、ズバリ言ってしまえば自分の価値観を持って自分の判断で行動できること、というほどの意味だと。<br /><br />　「日経ビジネスオンライン」の記事に、社会学者の上野千鶴子さんが「"自立"とは"手段"なのか"目的"なのか？」と問う、という話がありました。<br /><br />　一部を引用させて頂くと、<br />　「人が自由に自分のやりたいことをして生きられる、そのための手段として自立があるのではないか。なにも自立のための能力すべてを自らが持っていなくてもいい。誰か持っている人から調達すればいい。まず自分がなにをやりたいかが、はじめに問われる...。」<br /><br />　自立というのは目的ではなく、自己実現のための手段だ、と。<br /><br />　私は、自立というのは他者（ひと）と良い関係を築いていくための大前提であり、通過しなければならないプロセスなのだ、とこれまでにも書いております。<br />　自立とはプロセスなのだ、と。<br /><br />　ですから、「自立のための能力のあれこれ」という発想はしません。<br /><br />　「自由に自分のやりたいことをして生きられる」のではなく、「自分の責任と判断で、自分の行動をとり、それを支えるに足る膂力（りょりょく）を身につけていくこと、といってよい。<br />　膂という漢字は肉月（にくづき）の上に旅という字が乗った形で、自分の脚で歩いて行くという象意を持っています。自分の脚で人生を歩んでいく力、それが膂力ということですね。<br /><br />　上野千鶴子よりも限定的ですけれども、人間関係に限った使用定義ですので、ご了解下さい。<br /><br />　<span style="color: rgb(255, 33, 102);">自立とはプロセスですから、往相の自立もあるし、還相の自立もある</span>、と考えています。<br /><br />　「知」には、それを獲得していくプロセス（往相）と、それを通り越して、それにこだわりを持たず自ずと具現しているプロセス（還相）というものがあります。<br /><br />　端的に言えば、<a href="http://e-book4u.info/2008/12/post-17.html">泰葉の自立</a>は往相の自立です。<br />　キャリアウーマンに時たま見られる自立した女性。<br />　しかし、どこか片意地張っているところがあったり、女を捨てて男化してワーカホリックになっていたりして、心理学で言うパワーストラグルの段階を脱していない自立。<br />　...無用に、他者とぶつかったりする。これは自立を獲得していく過程にある、ということですね。<br /><br />　言ってみれば往相の自立であり、心が囚われています。未だ自由ではない。<br />　私はそういうものを、望ましい自立だとは思っていません。<br />　ですから、心理学で言う自立とは意味が違うところがあります。<br /><br />　とはいえ、何もかも自立しろと言うことはできません。仏教では「融通無碍」といいますが、あらゆるとらわれから脱して自在に考え行動できる、なんて、仏陀ならぬ凡人には無理でしょう。<br /><br />　上野千鶴子さんは足りないところは誰か持っている人から調達しろ、と。手段の一つとして、割り切れということですね。<br /><br />　たしかに、自分で何もかもと考えると、禅の修行者のようにならざるを得ず、その事に一生を費やしかねない。<br />　<span style="color: rgb(0, 128, 128);">「犀の角のように、たった一人歩め」</span>という初期仏教のように、修行が目的化しかねません。<br /><br />　心理学的なカウンセリングでは「自立を手放せ」という指導をするそうです。<br />　それというのも「（往相の）自立」は、その蔭に隠されたメンタルブロックが人間関係をぎくしゃくさせるから、ということだと考えられます。<br />　それで、自立を手放して、「相互依存」を認められるようになりなさいと。<br /><br />　これは、自立という概念を狭義に規定して、自立と相互依存を補完関係と考えているからですね。往相の自立を論じているわけです。<br /><br />　上野千鶴子が言っていることも、心理カウンセリングが説いているのも、実践的な「方便道」として言っているわけですから、それはそれで良いでしょう。観念的なものではなく、生きていくための英知として語っているのですから。<br /><br />　私もまた、究極の自立、あるいは本当の自立とは何かということを解き明かしたいわけではありません。そういうものが分かったからといって、自立した人間になれるわけではないからです。<br /><br />　複雑な現代社会では自由どころか否応なしの生き方をせざるを得ない状況にあるのが普通です。<br /><br />　その中で、徒（いたずら）に流されるだけの生活を送ったり、何かに悩んだり迷ったときに自分で判断することをせずに他者に依存してしまう、という生き方を改めないと、必ず後悔するよということを申し上げたいわけです。<br /><br />　メダカのように群れてその中に埋没してしまったり、あるいは迷うと運勢判断に依存したり、ということでは、自分の人生を自分で生きることはできません。年長者や先達のアドバイスを仰ぐことは独断に陥るのを避けるには良いことですけれど、決断は自ら下すこと。<br /><br />　人間は社会的存在ですけれども、時には孤独を見据え味わうことも必要です。そういう経験があればこそ、他者との良い関係を大事にする気持ちも育ってくる。<br /><br />　孤独になるのを避けてメダカの群れに迎合しても、群衆の中の孤独の影がつきまとうだけです。<br /><br />　若い頃、私は時々気晴らしに渓流釣りに出かけました。朝、暗いうちに山道に入っていきますので、先に行く人もなく一日中誰にも会わず、日が傾きかけて薄暗くなり始めた山の中にいると急に家が恋しくなりました。<br /><br />　「暖かい家と、温かい家族は大切だ」という吉本の詩の一節を必ず想い出し、子どもたちや妻への愛惜の念に駆られて暗い山道を急ぎ足で下るのが常でした。<br /><br />　これが、仕事帰りに仲間たちと赤ちょうちんでクダをまいたり、グチを言い合ったりしていては、毎度おなじみ終電車で、家に帰っても「風呂、メシ、寝る」の繰り返しにしかならない。<br />　家族への思いも、妻への感謝も湧くことはないでしょう。<br /><br />　このようなありふれた1日の中（うち）にも、「往相の自立、還相の自立」のひな形があるわけですね。<br /><br />　このブログでは、様々な角度から、人間関係における自立の問題を浮き彫りにしていきたいと思います。<br />]]>
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    <title>少女セシルが女に変わるとき</title>
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    <published>2009-07-21T14:38:27Z</published>
    <updated>2010-02-17T07:19:41Z</updated>

    <summary> 　石川ひとみのLPの歌詞を整理していて、三浦徳子の歌詞に引きつけられました。　わたし的にものすごくリアリティーを感じる表現となっており、エスプリの効いた詩です。　「雨に誘われて」というメタファーですが、一歩踏み出すという感覚でしょうか。　清水の舞台から飛び降りるというほどのことではなく、一歩踏み出して、雨に打たれる。　雨とは、文字通り「濡れ場」の意象を持ち、穢れるというほどのことはなくただ濡れる...</summary>
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        <name>小林由典</name>
        
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        <category term="003 男女・夫婦関係の諸問題" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[ 　石川ひとみのLPの歌詞を整理していて、三浦徳子の歌詞に引きつけられました。<br />　わたし的にものすごくリアリティーを感じる表現となっており、エスプリの効いた詩です。<br /><br />　「雨に誘われて」というメタファーですが、一歩踏み出すという感覚でしょうか。<br />　清水の舞台から飛び降りるというほどのことではなく、一歩踏み出して、雨に打たれる。<br /><br />　雨とは、文字通り「濡れ場」の意象を持ち、穢れるというほどのことはなくただ濡れるだけ。<br />　この言葉で、少女セシルが少女ではなく大人の女に変わるシーン的な切り替えを表象しています。<br /><br />　その歌詞とは、...<br /> ]]>
        <![CDATA[<div align="center">　【雨に誘われて】　（1978.12.21）LP「くるみ割り人形」
<br />歌：石川ひとみ／作詞：三浦徳子／作曲･編曲：大村雅朗<br /></div><br /><br />「<a href="http://e-book4u.info/2008/12/post-16.html">男女コミュニケーションの限界</a>」で素描した状況を、当の女性の側から書いたような歌詞だと言ってよいでしょう。<br /><br />私は彼女に言うべき言葉を探して、もどかしい気持ちなのに黙り込んでしまった。<br /><br /><span style="color: rgb(0, 191, 0);">「ことばじゃなくて　見つめていてよ<br />　そしてその腕　のばして欲しい...」</span><br /><div><br />しゃれた言葉を言う必要なんてない。<br />「熱く見つめてくれれば、分かるのよ」ということです。<br />でも、あの時彼女はうつむきながら訊ねてきたわけです。少しばかり古くさい日本的風情で良かったのですけど...<br /><br />そして<span style="color: rgb(0, 191, 0);">「その腕をのばして、（抱きしめて）欲しい。」</span><br /><br />そのようにすんなりと行動するには、私の内面は屈折しすぎていて、できなかった。<br />また、彼女の気持ちも複雑なものがあったはず。<br /><br /><span style="color: rgb(0, 191, 0);">「夜に向かう心の中は<br />熱い息吹が　渦巻いているの」<br />...</span><br /><br />彼女の瞳には妖しい光が浮かび、私の目をのぞき込みながら、電灯のプルスイッチの紐を引いた。<br />真っ暗闇の中、腕を伸ばせばその両肩を抱けるところに立っている...<br /><br /><span style="color: rgb(0, 191, 0);">「くちづけて　今ならいいわ<br />ためらうのは　明日にして<br />やさしさも　忘れていいわ」</span><br /><br />好きだったけれども、まだ少女だと思っていた彼女の突然の行動に、私は動揺し後ずさりをした。「野性的」と揶揄されたことがあった手前、こころのブレーキが効いていたのでしょうか。<br /><br /><span style="color: rgb(0, 191, 0);">「あなたの顔が　蒼ざめてゆく<br />子供扱いしていたのでしょう<br />あとずさり　それもいいけれど<br />ためらうのは　明日にして<br />やさしさは　ひととき捨てて」</span><br /><br />　まいったね。<br />　三浦徳子さんの描くセシル期の少女は、何故か過不足なくピッタリと当てはまってしまう。<br />　<br />　（歌詞だけ読むと、三浦徳子さんの世界は凛々しさがあって魅力があります。）<br /><br />　<span class="pink">「そういう優しさは　今のわたしにはいらないわ」</span><br />　...セシルお嬢様はこういうことを、時折グサリと言う人だったな。<br /><br />　子供扱いしていたのは、精神的に大人になりきれていない「未熟な男」の、身勝手な願望のなせる技なのでしょう。<br /><br />　でも、現実の彼女はそんなことお構いなしに「大人の女」に変わりつつある。大学を卒業する頃でしたから、21歳から22歳。はっきりと結婚を意識しています。<br /><br />　わたしが社会的に一人前になって結婚を考えるようになったのはそれから十数年後。<br />　わたしの方が１歳年上だったけれども、精神的には遙かに年下という感じがします。<br />　でも、現実には彼女を少女扱いしている、この行き違いは大きいものがあります。<br /><br /><br />　セシルは一夜で大人に変わるし、恋人や妻（という存在）は妊娠したとたんに母親に変身する。<br /><br />　女房の尻に敷かれるというのは断じて排したいという私だけれども、女性に尻をたたかれるというのは子供の時からの「男の宿命」なのかもしれない。<br /></div>]]>
    </content>
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    <title>恋愛の賞味期限、というものの意味(1)</title>
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    <published>2009-05-11T00:07:39Z</published>
    <updated>2010-02-17T06:51:48Z</updated>

    <summary> 　これまで私は生物学的な男女の区分ではなく、オトコ性／オンナ性という意味で男性･女性という言葉を使ってきました。　先日、NHKのTVでオトコとオンナでは、脳の発達の仕方が異なるという最近の研究結果を放映していました。大事な話だと思いますので、文字情報として残しておきたいと思います。...</summary>
    <author>
        <name>小林由典</name>
        
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        <category term="000 生命と心を考える" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[ 　これまで私は生物学的な男女の区分ではなく、オトコ性／オンナ性という意味で男性･女性という言葉を使ってきました。<br /><br />　先日、NHKのTVでオトコとオンナでは、脳の発達の仕方が異なるという最近の研究結果を放映していました。大事な話だと思いますので、文字情報として残しておきたいと思います。<br /><br />]]>
        <![CDATA[　この研究は男女100人を、脳の男女差が明瞭になっていく４歳から18歳までの間追跡調査したものです。<br /><br />　以下、概略を記しますと、<br /><br /><span style="color: rgb(0, 180, 0);">・脳の発達で男女差が明瞭に現れる部位は10カ所以上に及ぶ。<br />・女性の場合、左右一対ある海馬と呼ばれる部位が、15、６歳頃に男性よりも発達する。<br />・男性の場合、扁桃体と呼ばれる部位が顕著に成長する。</span><br /><br />　海馬は、記憶の元を司る部位で、海馬で処理された記憶情報は大脳皮質の各領野に保存される。<br />　扁桃体は、身の危険を感じとる能力を司っているとされ、男の狩猟本能に不可欠な能力。外部刺激は快・不快（あるいは、いる・いらない、あるいは好き・嫌い）に弁別され、瞬時に取捨選択される。<br /><br />　以上のことから、女性は細かいことまでよく覚えているが、情報の重要度で整理することは苦手な傾向をもつ。<br /><br />　男性は、自分にとって大事と思う情報を瞬時に分別して、その他のことは重要視しないのですぐに忘れる傾向を持つ。<br /><br /><br />　<span style="color: rgb(0, 180, 0);">うつ病やアルツハイマー病は、女性に多く<br />　自閉症（閉じこもり）は、男の方が女性の12倍も多い<br /><br />　男と女は、それぞれ異なる脳･神経系のメカニズム（ネットワーク）を使って、同等の知能を得ている。</span><br />　→異なった思考回路を使って、コミュニケーションを成立させようとしている、ということですね。<br /><br />　それで、<span style="color: rgb(0, 180, 0);">この差異がなぜ発生するのかといえば、狩猟と採取や子育ての役割分担からきているのではないか、</span>ということです。<br /><br /><br />　男性は狩猟のような場面では、瞬時に状況を判断し対応していく能力が求められる。<br />　ですから男の思考は、どうしても問題解決型になるようにできている。<br /><br />　それに対して、女性はコミュニティーで生きていくために、他の人の気持ちを感じ取って、うまく調整していく能力を求められる。人間関係がなによりも大事、という思考を抱くのが自然なことと考える。<br /><br />　しかし、男は女性のように相手の感情を感じ取る能力は高くない。男から見ると、女性は動物的本能のようなカンを持っていると舌をまきますね。俗に言う、女の直感というやつ。<br /><br />　女性から見ると、男というのは自分勝手で、女の気持ちを理解しないという不満を感じる。<br /><br />　男性から見ると、女の気持ちというのは、なにかぐちゃぐちゃに入り乱れていて、正しいことを言っても受け容れないし、何を言いたいのか（論理的に）判らない。結論だけを言って欲しい！となる。<br /><br /><br />　難しいですね。<br />　異なった思考回路で、コミュニケーションを交わしているわけですから、うまくいっている関係でも、的確に理解し合っているとは言えないのが本当の話でしょう。<br /><br />　しかし、以上のようなことはあくまでも脳の生理学的な機能の話であり、生物学的にいえば子孫を残していくための機能分化メカニズムに過ぎない、ということです。<br /><br /><br />　本能だけで生きている動物ならば、雄雌の感情的な行き違いだとか、恋の始まりや終わりだとか問題にもならないし、二股愛どころか一夫多妻でも何の問題ともならない。<br /><br />　しかし、人間には本能をベースにした知性や高度な感情があるために、そういうことが問題となるわけです。<br />　ですから、大脳生理学的事実や本能という話では何の解決にもならない。そういう知見は何ら帰結点を意味するものではなく、問題解決のための前提となる知識の一つにしかならない、ということです。<br /><br />　NHKの番組では、「社会的に生きていくために身につけていく能力が、夫婦の関係をダメにしていくのだ」という解釈をしていましたが、明らかになった事実をどう解釈するかのところで間違っていると思います。<br /><br />　
「脳の男女差が明瞭になっていく４歳から18歳までの間」を、人間が社会性を獲得していく期間と解釈したことが誤りです。これは、単にDNA的にプログラ
ムされたものが、実際に機能を果たすようになってスタンバイOKになるまでの、生理的な成熟過程にすぎない、ということです。<br /><br />　男性・女性という性差は子孫を残していくための機能分化ですから、最初から本能が潜在しているわけで、社会性を身につけていくために後天的に獲得する能力ではない。<br /><br />　問題は、一夫一婦という制度が、すくなくとも生物学的な本能に制限をかけることで成立している、という社会規範の有り様を私たちがどう理解し、納得し、共通の価値観として承認するか、という話であろう。<br /><br />　研究では、恋愛の賞味期限は1年から長くて3年だという。<br />　それで？ということが大切ですね。<br /><br />　♪　３年目の浮気ぐらい　大目に見ろョー<br />　♪　そういう態度が　許せないのよォー<br /><br />　人類の歴史以来ある問題が、西暦2000年をへた今日でもいっこうに変わらない。<br />　人が人として歩んでいくために学ぶべきことを、誰も伝承していかない。<br /><br />　封建制度下の男尊女卑思想であれ、昨今のフェミニズムの思想であれ、どちらかに偏りすぎたものであり、共通の認識で成り立った共通の価値観ではありえない。<br /><br />　一夫一婦制という現代社会の規範は、驚くべきことにそれを支えるべき何らの共通認識も共通価値観も持っていない蜃気楼なのだとは、うそ寒い話である。<br />]]>
    </content>
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    <title>愛されることの衝撃</title>
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    <published>2009-02-11T21:05:34Z</published>
    <updated>2010-02-17T06:25:49Z</updated>

    <summary> 　叱られることと愛されることは、人の心を育てていく上で重要な事件ですね。以前に叱られることについて触れましたが、その続きを中断したままになっていますので、取り上げておきます。　初めに親の育て方についてひと言申し上げておきたいのですが、決してよい子に育てようと思うな、と言いたいのです。 ...</summary>
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        <name>小林由典</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[ 　叱られることと愛されることは、人の心を育てていく上で重要な事件ですね。以前に叱られることについて触れましたが、その続きを中断したままになっていますので、取り上げておきます。<br />　初めに親の育て方についてひと言申し上げておきたいのですが、決してよい子に育てようと思うな、と言いたいのです。<br /> ]]>
        <![CDATA[　少し乱暴な言い方なのですが、よい子に育てると社会に出てから人一倍苦労させることになり、決して本当の愛情ある育て方ではない、ということです。<br />　私的に言うならば、よい子というのはspoilde child （直訳は甘えん坊）なのです。<br /><br />　親に気に入られようとして、自分の本当の気持ちを押し殺してしまった、自立していない子どもです。<br /><br />　言ってみれば、親依存症ですから、結婚すれば伴侶に依存し、社会では上司のイエスマン、友達同士では嫌われたくない症候群の八方美人。メンタルブロックをいっぱい持っていて、心の中で葛藤している内に、プッツンしたり、ウツに陥ったり、酔うと酒癖が悪くなったりする人が少なくない。<br /><br />　そうならないようにするには、親は自分に都合の良いように育てようとは思わないことです。自分に反抗したら、おお成長しているなと、すべてをひっくるめて受け止めてあげなければいけないでしょうね。そうでなければ、子どもの心は育ちにくくなります。<br /><br />　自分にはそのような傾向があるのかないのか、しっかりと見据えなければ、望ましくない人間関係を招いてしまう危険性があるわけです。<br /><br /><br />　さて、親以外の人、とくに初めて異性に愛されるということは、人生でも最も心を揺さぶられる事件の一つだと思う。<br /><br /><br />　清岡卓行<br /><br />　『氷った焔』1959年2月　書肆ユリイカ<br /><br />　「子守唄のための太鼓」<br /><br /><span style="color: rgb(0, 180, 0);">　二十世紀なかごろの　とある日曜日の午前<br />　<br />　愛されるということは　人生最大の驚愕である<br /><br />　彼は走る<br /><br />　彼は走る<br /><br />　そして皮膚の裏側のような海面の上に　かれは<br /><br />　かれの死後に流れるであろう音楽をきく</span><br /><br /><br />　愛されるという驚き、歓喜、そして陶酔と不安感がさりげなく表現されている、私の好きな詩の一つです。<br /><br />　愛されるということは、間違いなく自分の心を育てる契機となります。<br />　言い換えれば、自分がよい方向に変わる大きなきっかけになる、ということです。<br /><br />　先に述べましたように、「人は相手と自分との関係性にマッチするように自分を変化させる」という適応行動をとります。この行動は、子育て期の両親と私たちとの関係で身につけていった第二の天性だといえるでしょう。<br /><br />　親の愛情に包まれ、その期待に応えながら、成長してきた自分が、<br />　やがて親離れをして、異性と付き合い、愛し、あるいは愛される経験に出会う。<br /><br />　男であれ女であれ、相手が自分に抱いているであろうイメージにふさわしい人間になろうとするのは、ごく自然なことです。<br /><br /><br />　そして愛する方も、多くの場合過剰な期待とイメージを相手に抱き、それにふさわしい人間になりたいと自分を高める努力をするものです。<br />　その根底には、当然ですが、好きな人から愛されたいという願望があるからですね。<br /><br />　この時に、親との関係性が大きくその人を左右するのです。<br /><br />　親に反抗することも含めて、受け入れられて育った人は自分の率直な気持ちを出せるのですが、親への反抗を厳しく叱責された経験を持つ子は相手に嫌われることを過剰に恐れ、自分を押し殺そうとする。<br /><br />　ここの違いは、結果にものすごく大きな違いをもたらします。<br /><br />　自分を出せる人は、相手とぶつかったり仲直りしたり、喜怒哀楽を繰り返しながらも望ましいパートナーシップを形成していきます。それで壊れる関係であれば、結ばれるべき相手ではなかったということで、納得できます。<br /><br />　しかし、嫌われたくないと自分を殺す場合、際限なく一方的な関係になってしまうのものです。ぜったいにバランスがとれません。<br /><br />　よい子というのは、多くの場合こちらのタイプに入ってしまうのですね。他者の規範を自らの規範として受け入れてきたために、それが習い性となって性格の一部になっているのです。<br /><br />　不毛な男女関係はほとんど基本的にこういう関係です。<br />　特に、日本人の女性はそういう人が多い。<br /><br />　女性が自立した人で、男が未熟だという場合は、女性が男を一人前に育てるということがありますが、その逆の場合、男は女性を自分の都合の良いようにしようとはしますが、自立させようと考える事はほとんどないですね。際限なく、女性に負担を強いるものです。<br /><br />　以前に『手紙』の歌詞解説でなかにし礼に言及しましたが、彼は「自立している女性が好きだ」とNHKの番組で言っていました。私もそういう考えですので、炊事・洗濯・お掃除といった主婦業を求めませんが、反面で女としての品格みたいなものを求めてしまいます。<br />　<br />　それは女性らしい思いやりや愛情、家庭的な温かさとか、男への理解だとか、仕事への理解だとか...。ですから、自分を高めようとする気持ちのない人は、このタイプの男からは「もっと大人になりなさい」と突き放されます。<br /><br />　女は恋をすると無分別になってしまうものですが、そうなる前にじっくりと考えておくと良いでしょうね。<br /><br />　際限なく男に従属したり貢ぐような生き方を甘んじて受け入れるのか...<br />　互いに高めあえる生き方をするために、精神的に自立していく、ある意味で孤独で大変な道を選ぶか...<br /><br />]]>
    </content>
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    <title>男女のコミュニケーションの限界(2)</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://e-book4u.info/2008/12/2-2.html" />
    <id>tag:e-book4u.info,2008://2.35</id>

    <published>2008-12-25T11:14:13Z</published>
    <updated>2010-02-16T07:42:25Z</updated>

    <summary> 　前回の話を素材に、すすめて参ります。　男女のコミュニケーションの限界を解説する前に、そもそもコミュニケーションというのは擬似的理解でかろうじて成り立っているに過ぎない、ということです。　擬似的という表現が曖昧かも知れませんが、はっきり言えば「誤解」です。 ...</summary>
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        <name>小林由典</name>
        
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        <category term="003 男女・夫婦関係の諸問題" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[ <p>　前回の話を素材に、すすめて参ります。<br /><br />　男女のコミュニケーションの限界を解説する前に、そもそもコミュニケーションというのは擬似的理解でかろうじて成り立っているに過ぎない、ということです。<br />　擬似的という表現が曖昧かも知れませんが、はっきり言えば「誤解」です。<br /> </p>]]>
        <![CDATA[<p>　前回の話で私が提示した問題は３つ、あります。<br /><br />(1) 言葉と思考の構造...一つの言葉を10人が聞けば「十人十色」となる。<br />(2) <b>コミュニケーション</b>とは、<b>誤解</b>の上に成り立っている砂上の楼閣。<br />(3) 男女の言葉は、全く別な世界を表現している。<br /><br />　さらに、男性･女性の心情を理解する素材として、<br />・女性が男性を好きになるプロセスとその現れ方<br />・男性が女性を好きになるプロセスとその現れ方<br />・相思相愛でも結ばれない理由（ワケ）<br />　・自分を肯定し、受け入れることができるかどうか<br />　・劣等感は人それぞれ、関係性で違う</p><p><br /></p><p>　このような領域のことが含まれています。<br /><br />　今回、取り上げたいのは最も基本的な<b>言葉と思考の構造</b>についてです。<br /><br />　以前テレビで、お年寄りを登場させてクイズをやる番組がありました。<br /><br />　お互いにとんちんかんな受け答えをしているのに、会話が進んでいくおかしさがウリでした。<br />　皆さん、大笑いですが、人ごとではないと思います。<br /><br />　別ブログのメールマガジンで書いたことを少し引用します。例によって、長くなります。<br /><br />　<b>人間関係</b>というと、エニアグラムだとかサイコサイバネティクスとか、サイグラムだとか、いろいろな理論と実践法が百花繚乱の分野です。<br /><br />　しかし、情報を概観してみると、それらのほとんどは人の<b>性格を分類化</b>することを前提にして成り立っている、ということが分かりました。<br /><br />　エニアグラムを素材に、自分の場合を書いてみたのは、性格を分類化してもどれにでも当てはまるよ、ということを申し上げてみたかったからです。</p><p><br />　その続きを書く機会がないまま、道草記事を書いているうちに、遙か昔のことのようになってしまいました。ブログという形式の問題があるのですが、カテゴリーアーカイブを見ることによって、連続した記事が読めるようになりますので、お知らせしておきます。さて、<br /><br />　若い人が「＊＊グラムを学んで、他者の気持ちが手に取るように分かって人付き合いが苦手でなくなった」などと書いています。<br /><br />　けれども、私はどうも違和感を覚えます。<br /><br />　私は学生の頃から「人それぞれだよ」ということを口癖のように言っていました。　当時のはやり言葉で「レッテル主義」といい、あの人はこうだと簡単に決めつけて、そのようなラベルを貼り付けておしまい、という実に安易な対人観を持つ人間に嫌悪感を持っていました。<br /><br /><br />　人は他人の体験を理解することはできても、その人が受けた心の痛手や重みについては、<span class="pink">自分の尺度でしか計り得ない</span>ものです。<br />　その深みまで理解し得るには、自分もそれだけ深い思いを経験し味わっていなければ、できない話です。<br /><br /><br />「ひとは監獄・大病・破産を経験しないと一人前にはなれない」といわれるのは、社会的な限界状況・死に直面する経験・経済的な破綻という、人の不幸の最たるものを心底味わっていなければ、他者の痛みを本当に深く理解できないよ、ということです。<br /><br /><br />　トルストイは『アンナカレーニナ』の冒頭で「幸福な家庭というのはどこも似通っているが、<span class="pink">不幸な家庭というのは千差万別である</span>」と書いていますね。<br /><br />　人を４種類の血液型で分類するのは論外としても、10の性格とか、12支に当てはめた分類とか、要するに人の性格を類型化することを前提にした論理は無理があるな、と思っていました。<br /><br />　そういうものを勉強して、他者がよく理解できるなどという浅薄な物言いに不快感すら覚えます。<br /><br /><br />　<span class="pink">安易に、他者が分かったなどとは決して言えない</span>のです。<br /><br />　このような考え方の大前提に「人の性格は変わらない」という考えが反省以前的なコギトとしてあるのです。<br /><br />　心理学の世界でも「性格は変わる・変えることができる」という考えと、「性格は変わらない」という考えとが両方あって、どちらが正しいかというのは定まっていないということです。<br /><br />　そもそも、人の心というものを、外側から科学的に分析したり測定したりすることなどできないものですから。<br /><br />　ですから、学者が正反対の論理を言い合っているというのが、現実です。学者の名前を出したり、心理学ではこういっているという話そのものが、何ら正当性を意味するものではない、というのが本当のことなのですね。<br /><br />　私は「性格は常に変動している」という考えを持っていましたので、「性格を類型化することを」基盤に置いている、巷に流布している＊＊グラムのたぐいをすべてひっくり返す論理とその実践ノウハウを確立していこうと、方針を定めました。<br /><br />　（性格が変動するといっても、本人の自覚では自分らしさは全く変わっていないもので、これを自己同一性といいます。）</p><p><br />　しかし、その根拠を示すということが必要なわけですから、マクロビオティック的な宇宙論から始めなければならず、「ちょっとついて行けない」と思われるかも、と思っていました。<br /><br />　それに代わるものとして、ひとつ紹介したいのがトニーブザンの「マインドマップ」の考え方ですね。<br /><br />　ブザンによれば、「<b>思考</b>は<b>連想</b>の<b>連続</b>であり、<b>放射状の構造</b>をもつものだが、<b>連想能力</b>はほとんど<b>無限</b>である」ということです。<br /><br />　そして、この連想能力というのは、当然のことながら<span class="pink">インプット（知識や経験）の量が多い人ほど、広がりが大きい</span>ということになります。<br />　子どもよりも大人の方が、経験量が多い分、連想するものが多くなるわけです。<br /><br />　それを示す実験として、一つのありふれたキーワードから連想するものをリストアップさせるテストをすると、同じ言葉を連想する確率は極めて低いという結果が出ている。<br /><br />　つまり、ごく単純な言葉から受けるイメージでも、一人一人<b>不思議なほど違って</b>いて、十人十色どころか千人千色、万人万色なのだという。<br />　オーバーラップすることはほとんどないのだそうです。<br /><br />　大変な話です。<br /><br />　ましてや、複雑きわまりない心を持つ人間では、地球上に同じようなこころあるいは性格だと<b>同類項でくくれる人などいない</b>、ということになりますね。<br /><br />　まさに、私の口癖のように「ひとそれぞれ」なのです。<br /><br />　脳の研究の進歩という面から、ひとの<b>こころ</b>の<strong>無限といえる多様性</strong>が明らかにされてきて、私は自分の考え方の礎が確かなものになったという安心感を得ることができました。<br /><br />　また、自分の性格を作っている過去の精神的体験とそのファクターを再構築する方法として、このマインドマップが使えるということも分かりました。<br /><br />　自分の精神史を作り、潜在意識に追いやられているファクター（メンタルブロックの要素）を、マインドマップによって明らかにして、現在のものの見方と解釈で再構築することで、自分を変えることができる。それによって、人間関係を変えることができる、という道筋が確立したのです。</p><p><br /></p><p>　まとめますと、人の思考は言葉でなされるが、それは連想の連続であり、無限の多様性を持っている。性格を形成している基盤は、過去の精神史ですので、その中に閉じこめられているメンタルブロック要素を解放しないと、性格を変えることは難しい。</p><p>　逆に言えば、その営為を通じて、性格を本来の自分に戻し、人間関係を改善する道が開ける、ということです。</p>]]>
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    <title>男女コミュニケーションの限界</title>
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    <published>2008-12-21T07:35:40Z</published>
    <updated>2010-02-16T08:03:35Z</updated>

    <summary>　今回はコミュニケーション能力とその限界について、自分の体験から発展させてみたいと思います。...</summary>
    <author>
        <name>小林由典</name>
        
    </author>
    
        <category term="003 男女・夫婦関係の諸問題" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[　今回はコミュニケーション能力とその限界について、自分の体験から発展させてみたいと思います。<br /><br />]]>
        <![CDATA[<p>　道草ばかりしていて、なかなか前に進めません。<br /><br />　少しまとめておきますと、性格分類のテーマは、</p><p>・人の性格は可塑的なものであること、</p><p>・<b>T</b>ime <b>P</b>lace <b>O</b>cｃasion によって、その人が抱く思考は千差万別であり、</p><p>・型にはめるノウハウはほとんど意味がない、という話に続いていきます。<br /><br />　男女夫婦間の問題は、大前提として自分という人間が自立していなければ、本当に望ましい人間関係は築けない。ということで、しばらく自立の様々なあり方を例示しました。<br /><br /><br />　言葉の齟齬とボディランゲージの限界<br /><br />　コミュニケーションは言葉だけでなく、「目は口ほどにものを言う」という言葉があるように、ボディランゲージも大きな役割を担っています。<br /><br />　私はその点コミュニケーション能力がないというか、日常生活の場で自分の思いあるいは逆に他者の思いは、伝えたい相手にまったく伝わらない、という感覚を持っている人間です。<br /><br />　今でこそ女性の歌の解説などブログに書いていますが、若い頃は全く女性心理を理解しない朴念仁でした。そんなぶざまな体験から、始めてみます。<br /><br />　「君は輝いて天使に見えた」のページで書いているのですが、<br /><br />　「女の子が次第に大人びていく微妙な時期の変化を、大人になりきれないナイーブなお兄ちゃんがハラハラしながら見守る、という感じですね。<br />　私的には、この歌は石川ひとみちゃんの歌の中でも、最も共感できます。そのような女性とのお付き合いの経験があり、天野滋さんの歌詞と同じ感情を持ったからですが。」<br /><br /><br />　その人は当時私と付き合っていた彼女の親友で、一歳下の同級生でした。<br />　私の彼女は別の男と別れて私の元に走った女性です。<br /></p><p>　</p><p>　当時、私は学校に近い下宿に住んでいましたので、友達がよく出入りしていました。<br /></p><p>　その人は演劇サークルに入っていて、私の部屋を訪れると、私を廊下に締め出して部屋で着替えをすることが時々ありました。そういう無邪気なところが好ましかったですね。</p><p>　ある時、彼女の脱いだ服が非常にセンスが良いので、どこの洋服なのか聞いてみたところ、</p><p>　「売っている洋服を着たことがない」というのです。<br />　小学生の時から、下着以外はすべてオーダーメイドなのだという。<br /><br />　田舎から出てきて、下宿していた貧乏学生の私には、全く想像もできない話です。</p><p>　名門ミッションスクールから進学してきたというだけで、怖じ気づいてしまいました。</p><br /><p>　私は地方の男子高校を出ましたので、高校３年間は女生徒の姿は通学中の自転車の後ろ姿しか見たことがなく、ミッションスクールから来た女の子が、どのような価値観を持っているのか分からず、どんな話をしていいのかとまどっていました。<br /><br />　一つだけ分かるのは、セシルお嬢様だなということだけ。</p><br /><p>　セシルな彼女はまだ少女らしさが残っていて、恋にあこがれる乙女という感じで、夏休みに一緒に行った白馬村（にある彼女の家の別荘）滞在中に同級生の一人に恋をしました。</p><p>　この男は日常生活破滅型の無頼派で、心配していたのですが、案の定手痛い失恋をしました。</p><p>　男は八方破れで、論説が鋭く、毒舌で酒乱とくれば、無理なことは分かっていたのですが。</p><p>　私が間を取り持つ形であったため、彼女を慰めたことがあります。</p><p>　「あまりにも、特殊な人を愛してしまったのね...」と、彼女はつぶやきました。</p><p>　私は可愛い妹のように接していましたが、セシル嬢は私の彼女にに「二人の関係はどこまで行ってるの？」と尋ねたということを聞かされました。</p><p>　「最後まで行ってる」と私の彼女は答えた、という。<br /><br />　私はセシル嬢と顔を合わせることが恥ずかしくなりました。</p><p>　彼女は、私を「ノーブルだけど野性的ね」と、少女の特権であるイノセントな残酷さでサラリと言いました。そういうクリティシズムを時々見せる...。</p><p>　私としては、椎名麟三の小説に出てくる残酷な事を平気でズバリと言うおばさんは好きでしたが、少女的残酷さはグサッときますね。想定外のことが多く、こころが無防備だからでしょう。<br /><br />　その後、学校近くの下宿を引き払い、神田川の面影橋近くのアパートに移り住みました。<br /><br /></p><p>　この部屋に彼女がやって来る日、私は朝から部屋掃除をして、八百屋でグレープフルーツを買ってバスケットに入れ、部屋に柑橘系の香りを漂わせたのを思い出します。</p><p>　久しぶりに会った彼女は、少女から大人に変わり始めた時期で、私は彼女に女を感じないようにと、妙に意識しました。</p><p>　部屋に、ステレオがあることに気づいた彼女は、レコードをかけてというので、ロシア映画「戦争と平和」のサントラをかけたかと思います。</p><p>　チャイコフスキーなどかけたら、セシル的に何か言われそう、と考えたからです。</p><p>　かといって、彼女を理解しようと買ってきたバッハのマタイ受難曲をかけたのでは、わざとらしくていけないし。</p><p>　彼女はクラシック音楽の素養が高く、何か尋ねられたら返事に窮するし...。</p><p>　彼女の方も、私に合わせようとして「お兄ちゃんは、私にプロレスの雑誌とか買ってきてって言うのよ。それで、私にコブラツイストとか、技をかけるの」などと、言うのですが、私はプロレス好きではないし...カール・ゴッチのファンよ、とか言われても相づちすらうてない。<br /></p><p><br />　彼女は、不意にバロック音楽は好き？と尋ね、私は「曲にもよるけど...」と内心逃げ腰で答えました。<br /><br />　数日して、彼女はピエール･ランパルのフルート協奏曲のLPを持ってきました。</p><p>　ハープシコードとフルートの協奏曲です。<br />　これを聴くと、次第に彼女に惹かれて抗（あらが）いがたく「好き」になっていくあの時の気持ちがよみがえってきます。<br /><br />　私は、このレコードと同じものを高田馬場駅前のレコード店に注文しました。<br />　私は、借りたレコードを自分のものにして、新しいレコードを彼女に返しました。</p><p>　このレコードをどうしても自分の手元に残しておきたかったからです。<br /></p><p>　ところが、それはすぐ彼女に分かってしまった。</p><p>　「ねえ、レコードを取り替えたでしょう...どうして？、あれ、古いから音がざらついているでしょう」</p><p>　と言われて、内心を見透かされたように感じ、うろたえて何とも答えようがなかった。</p><p><br /></p><p>　私は黙って、音量を低くしてレコードをかけました。</p><p><br /></p><p>　彼女はうつむいて、ぽつりと言いました。</p><p>　「私たち、ずっとこのままで　いられない？」</p><p><br /></p><p>　その言葉を、私は一瞬理解できなかったのです。</p><p>　よくある、「（ただの）良いお友達でいましょうね」というセリフなのだろうか？</p><p>　...という思いがよぎりましたが、私が彼女に告白したわけでもないので、わざわざ彼女が言う理由がない。</p><p><br /></p><p>　何か言わなくてはと思いながら、いろいろな思いが駆けめぐって、言葉にならない。</p><p><br /></p><p>　しばらく、ハープシコードの音色を聴きながら、わたしはようやく、</p><p>　「遅くなったから、送っていくよ」と言って、立ち上がりました。</p><p>　彼女は、遅れてゆっくりと立ち上がり、待っている私に、蛍光灯のプルスイッチのヒモを握りながら</p><p>　「電気、消すでしょ？」<br /></p><p>　...と言って、いきなり電気を消してしまいました。</p><p>　闇の中で、手の届くところに彼女が私の方を向いて立っている。<br /></p><p>　私は動揺して後ずさりし、後ろ手にドアのノブを探し、廊下に出て彼女を待ちました。</p><p><br /></p><p>　廊下の明かりに照らし出されて、ドアのところまで出てきた彼女は上目遣いで私を見上げ、そのまま顔を上げて一瞬まぶたを閉じ、ゆっくりと目を開けていきました。</p><br /><p>　私はもう、何も言えません。</p><p>　愛想を尽かされてしまったかな、と心配しました。</p>　けっしてうれしい表情でないことは、当時の私にも分かりましたけど。<p></p><p>　彼女の言ったことばが理解できない。表情の意味を理解できない。それで詩など書けるの？</p><p>　...っていう感じですね。（日常性の中でコミュニケーションが出来ないから、詩など書く人になるのです）</p><p>　うつむいて言わずに、私の方をみて目で訴えかけてくれたなら、鈍感な私でも了解できるものがあったでしょう。<br /></p><p>　何十年もたってから、あの時どう言えば良かったのかなと考えることがあります。</p><p>　「このまま、っていう意味がよく分からないけれど、ボクは自分の本当の気持ちを言うと...</p><p>　他愛ない話ばかりしているけれど、きみといるこの時間は、本当に夢の中にいるように感じる。</p><p>　そして、きみが帰った後は、いても立ってもいられない気持ちになってしまう。</p><p>　一度も、手を握ったこともないけど、本当は、その手を握りしめたい。</p><p>　そして、...抱きしめたい...。</p><p>　だから、このままっていうのは、本音的には苦しいところがあるけれど、</p><p>　ずっと会っていられるのなら、それだけでも、飛び上がるほど嬉しい！」</p><p><br /></p><p>　こんなふうに、言えれば良かったのかな、と。（絶対に言えませんけど！）</p><p><br /></p><p>　けれども、自分の過去の事を知っている彼女に、そんなことを言うのは恥知らずのように思えるし、彼女の方でも２度の恋愛顛末を私が慰めている、という事があり、お互いに遠慮しているものがあったのですね。</p><p><br /></p><p>　彼女も勝負をかけるなら、これくらいはっきりと、誤解のないように言ってくれたなら。</p><p>　谷山浩子　『<a href="http://jp.youtube.com/watch?v=y4EL9jwJm0U">夜のブランコ</a>』</p><p>　　　　私は夜咲く　ガラスの花よ　あなたの手で壊して</p><p>　　　　かけらになって、粉になっても　あなたが好きよ、好きよ！</p><p><br /></p><p>　って、望みすぎですよね。<br /></p><p><br /></p><p>　そして、私は物書きとして生きていこうと決意を固めていた時期でしたので、食っていけなくとも自分の生き方をしたかった。</p><p>　とても、セシルお嬢様を苦労させずにやっていく自信がありませんでした。</p><p><br /></p><p>　田村隆一『<a href="http://www.eonet.ne.jp/%7Emansonge/trp/030.html">見えない木</a>』　より、一部抜粋</p><p>　　　　　雪のうえに足跡があった<br /><br />　　　　　瞬時のためらいも　不安も　気のきいた疑問符も　そこにはなかった<br /><br />　　　　　ぼくの知っている飢餓は<br />　　　　　このような直線を描くことはけっしてなかった<br />　　　　　この足跡のような弾力的な　盲目的な　肯定的なリズムは<br />　　　　　ぼくの心にはなかった<br /></p><p><br /></p><p>　そう、彼女のように「弾力的な　盲目的な　肯定的なリズムは　ぼくの心にはなかった」のです。<br /></p><p>　生活に苦労して夫婦げんかをするなんて、やりたくない。喧嘩などしたなら、自分の中の何かが失われてしまう、という感覚がありました。</p><br /><p>　この日、私は一緒に電車に乗って、彼女の地元駅まで送っていきました。途中２．３度、乗降客が混雑した時に彼女の背中に手をまわして、軽く自分の方に引き寄せたことがあっただけです。</p><p>　駅に着いても彼女はありがとうと言わず、電車を降りて、改札を抜け、自宅への道を歩いていきます。私はＵターンするつもりでいたのですが、そのまま自宅まで送ることになりました。</p><p>　その辺が、お嬢様たるところなのかもしれません。</p><p><br /></p><p>　彼女は「寄っていって」と私に言い、豪壮な家に招き入れました。</p><p>　私は、想定外のことにあわてましたが、<br /></p><p>　母親と顔を合わせ挨拶をして、応接室で高級な酒など味わい、気押されるばかりでした。</p><p><br /></p><p>　私は応接のソファーの左端に腰を下ろしたのですが、彼女は向かい側には座らず、私の左の肘掛けに片足を乗せるように座りました。彼女の腰が顔の近くにあり、太ももが視界の左側に見えて、否応なしにオンナを感じてしまいました。</p><p>　こうして、私たちは、相思相愛になっていたはずなのですが、私はとうとう彼女の言葉に一言も応えることはなかった。</p><p>　お互いの気持ちを確かめ合うことはついになく行き違ってしまい、失意の彼女はイギリスに留学して行ってしまいました。</p><p>　私はよく女性から「あなたって、鈍感ね」とか、「女に冷たい人」と言わたものですが、精神的なタイプの男は自分の内面を女性に投影しますので、生身の女性とでは齟齬をきたすところがあるのです。</p><p>　このようなたぐいの人は、男であれ女であれ、付き合うことは難しいものです。結婚などするのは罪を作るようなものです。<br /></p><p><br /></p><p>　「好きと言えばいいのに...」という伊藤咲子の『<a href="http://mediaxross.com/favorite/2008/12/1.html#more">乙女のワルツ</a>』のようにはいかない、22歳の別れでした。</p><p>　過不足なく相手に伝えるということは、難しいものがあります。</p>]]>
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    <title>書かなかった泰葉記事、女性の自立</title>
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    <published>2008-12-20T00:22:06Z</published>
    <updated>2010-02-17T06:19:57Z</updated>

    <summary> 　前回、本当は泰葉さんの記事を書こうと思っていたのですが、いろいろ火種が残っているようですので、芸能ネタになるのを避けるために取りやめにしました。　他者の話を材料にすると、どうしても背後の状況が分からずに憶測になってしまいますので、詳細に論じることはできません。それで、時効となった古い過去の経験を素材にしました。 ...</summary>
    <author>
        <name>小林由典</name>
        
    </author>
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[ 　前回、本当は泰葉さんの記事を書こうと思っていたのですが、いろいろ火種が残っているようですので、芸能ネタになるのを避けるために取りやめにしました。<br />　他者の話を材料にすると、どうしても背後の状況が分からずに憶測になってしまいますので、詳細に論じることはできません。それで、時効となった古い過去の経験を素材にしました。<br /> ]]>
        <![CDATA[　泰葉騒動は、端的に言って女性の精神的な自立の問題なのだと思います。<br /><br />　彼女はお嬢さん芸からプロになろうとして、行き詰まった時に、小朝から「うちの子にならないか？」とプロポーズされて、結婚した。<br /><br />　30男と25過ぎの女ですから、年齢的にはごく普通なのですが、泰葉さんは精神的には自立していないですね。ですから、うちの子にならないか、というプロポーズがある。<br /><br />　男には、まだ色に染まっていない女の子を妻にして、自分色に染めてみたい、という潜在的な願望があります。<br />　特に、自分の感覚・趣味性にこだわりを持つ人はその気持ちが強い。そして、それはすなわち精神的に未熟な部分、幼児性でもあるのです。子どもの部分を持っている。<br /><br />　一方で、女性は相手の男に合わせようと自分を変えてくる度合いが男よりも大きいですから、付き合いの度合いが深いほど、その色合いが強いものです。<br />　男と別れた女性が、いくら、過去を清算したと思っても、それがにじみ出てくるのです。<br /><br />　強固な自分の世界を持っている男というのは、そういうものを敏感に感じて嫌います。彼は、自分の世界にあるものは、すべて自分の感覚に合うものしか置きたくないから。<br />　特に、相見る（あえて古語で記す。意味は男女が交わること）時に、それを（強く）感じるもので、女性が無意識にさらけ出すからでしょうね。<br /><br />　男は、イノセントな女性を、未熟な少女のまま保護していたい。<br />　生身の女は、否応なしに大人になっていき、一人の自立した人間として成長していく。<br /><br />　そのような関係できていて、泰葉さんが一人の大人の女性として自立しようとすれば、この結婚のあり方を脱しなければならないのは当然のことなのです。<br /><br />　そして、それをやるにはものすごいエネルギーを必要とする。一暴れするほどのエネルギーを振り絞らなければ、出来ないことだと思います。<br />　普通は、それをためらって、内心はこの亭主！とか思いながら、心の中にナイフを光らせて、老いて弱ってくるのを待っているわけですね。<br /><br />　身勝手な男と一緒になって、何十年も我慢している妻は、この亭主殴ってやりたいとか、踏みつけにしてやりたいとか、極端に言えば殺してやりたいとか、思ったことのない人はいないでしょう。<br /><br />　泰葉さんが「この金髪▽▽野郎！」とか、言ったり書いたりしたのは、40代50代の妻ならごく普通に持っている怒りの感情で、取り立てて騒ぐほどのものではありません。それを言うか言わないか、という違いだけですから。<br /><br />　この怒りの感情というのは、まさに自分が不当に扱われてきた事に対する、自分の心を大事にしたいというごく正当な感情ですので、それが理解できれば、「おお、やってるな」くらいにしか、意味はありません。<br /><br />　また、男の方も、「言われて当たり前だ」と思っているものですから、保護していた青い鳥の、鳥籠を開けて、自然界の大空に「無事で生きてくれ」と放つような気持ちを抱くと思う。<br />　生身の女性を、子どものまま保護し続けることなど出来ない事は、よほど自己中の幼児的人間でもない限り、思い知らされるはずです。<br /><br />　マスコミが騒いでいるほどには、やっていることはどうと言うほどのものはないですね。<br />　能ネタになてしまうから、派手に見えるだけです。<br /><br />　（この記事は、１２月23日に書きましたが、内容の連続性を考慮して日付を繰り上げ、順番を変えてあります。）]]>
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    <title>（続）エデンの東、アブラ的女性像</title>
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    <id>tag:e-book4u.info,2008://2.34</id>

    <published>2008-11-08T04:36:53Z</published>
    <updated>2010-02-16T07:38:22Z</updated>

    <summary> 　アメリカ版「戦争と平和」がオードリー・ヘップバーン映画であったように、『エデンの東』はジェームス･ディーン映画になっていますが、一番輝いているのは二人の兄弟を愛したアブラではないだろうか。 ...</summary>
    <author>
        <name>小林由典</name>
        
    </author>
    
        <category term="003 男女・夫婦関係の諸問題" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[ <p>　アメリカ版「戦争と平和」がオードリー・ヘップバーン映画であったように、『エデンの東』はジェームス･ディーン映画になっていますが、一番輝いているのは二人の兄弟を愛したアブラではないだろうか。 </p>]]>
        <![CDATA[　<p>　もう一度彼女の言葉を引用しておきます。<br /><br />　「大人になると、他人の間に自分の居場所ができて、自分の大きさができて、形ができる。こっちから出て行くものもあるし、ほかの人から入ってくるものもある」」<br /><br />　翻訳がいまいち曖昧なのですが、要するに...<br /><br />　精神的に未熟な者は自己中だけれども、大人になるということは「他者との関係性」において自分の世界を獲得していくことよね、<br /><br />　...と、言っているわけです。<br />　さりげなく話していますが、大変なことを述べていると思います。<br /><br />　私たちは、自分とは何か、自分の性格はどのようなものであるかということを考えるとき、「他から切り離した自分」というものを分析しようとしますね。<br /><br />　あなたも、ごく自然にそうするのではないでしょうか？<br /><br />　しかし15歳にもならないアブラがアレンと付き合って理解したのは、「そのような自己中の考えは、子どもの物語」なのだ、ということです。<br />　フロンティア開拓時代のアメリカ女性とはいえ、小娘にこんなことは言えないという気はしますが、スタインベックが描くアブラはさっさとよい子のアレンを乗り越えていってしまいます。<br /><br /><br />　そして、父との確執、母との相克の中で自立していくキャルに対して、<br /><br />　キャル、「他者との関係性」において自分の世界を獲得していくことよ。あなたは、自分が持ち続けてきた子供の物語の幾ばくかを失うかもしれないけど、大人の世界の現実を受けとめながら、生きていかなければいけないの...<br /><br />　と、問わず語りをしているわけです。半分は自分を納得させ、他方でキャルに同意を求めている。<br /><br /><br />　まさに、このブログのサブタイトルである「他者（ひと）とともにあり、（なおかつ）自分らしく生きる、という道を自分の力で歩き始めたわけです。（ちょっと我田引水ですが）<br /><br /><br />　良好な人間関係というのは、このように決然として自立していくことからしか始まらないのです。<br /><br /><br />　とくに女性の方<br />　アブラの次のような台詞をあなた自身が言えるでしょうか？<br /><br />リー：「突っ返されて、（婚約者の）アロンがあなたを好きでなくなったら？」<br /><br />アブラ：「賭けね。<span class="pink">それでも、私は自分自身でありたい</span>」<br /><br />　すごいな、と思います。</p><p>　アメリカ、フロンティア開拓時代は男性原理社会でしたから、女性も男化していましたけれども、すごい、すばらしい。</p><p><br /></p><p>　我が国の男女問題の根底にあるのが、「相手に嫌われることを恐れて（避けて）、自分の考えや感情を押し殺し、結局最後はそれが破綻する」という必然的なプロセスです。</p><p>　特に、日本的な道徳観では、女性が怒りを顕わにすることをはしたない行為だと見る向きがあります。</p><p><br /></p><p>　しかし、前にも書きましたが、怒りというのは自分が正当に扱われなかった時の、自分を大切にする感情だという面があります。怒るべき時には、怒らなければいけないものです。欧米の女性は、激しく怒りの感情を表に出しますね。</p><p><br /></p><p>　そういうものを押し殺し、見ないようにしているうちに、二人の間に溝が広がっていく。表面的なもめ事は様々な形で出てくるのですが、実は抑圧された感情が形を変えて出てきている場合がたくさんあるのですね。</p><p>　ですから、しっかりと自分の本当の気持ちを直視して、過不足なく相手に伝えていかねばいけない。<br /></p><p><br /></p><p>　動画の場面で、キャルがアブラの話をはぐらかそうとした時、「キャル、真面目に聞いて！」と、ピシャリと締めています。</p><p><br /></p><p>　そして最後の章では、現実逃避をはかろうとするキャルに対して、アブラは、「逃げ出していく人と、付き合うことはできないわ」と、厳しく言った。</p><p><br /></p><p>　これには伏線があります。</p><p>　婚約者だったアロンが二人の関係を駄目にして、軍隊に志願する場面。</p><p>　軍隊の採用係は、超イケ面のアロンを見て、「恋愛沙汰から逃げ出してきたのか...、そうでなければ自分から逃げ出したいのだろう...」と、値踏みをするくだりがあります。</p><p><br /></p><p>　それを受けて、このアブラの台詞が生きてくるわけで、スタインベックは計算を尽くしていると思います。</p><p><br /></p><p>　精神的に未熟な人は、えてして「愛されること」を願います。そうすると「嫌われること」を恐れて、不毛な関係を自ら作ってしまいます。</p><p><br /></p><p>　15歳のアブラは違う。</p><p>　私は私自身でありたい。</p><p>　このような生身の私を、大切にしてくれる人を愛したい。</p><p><br /></p><p>　...と言っているわけです。</p><p><br /></p><p>　キャルは否応なしに一人前の男として、成長していくでしょうね。</p><p>　自分が自立していかなければ、本当に他者に対して思いやりもできないし、愛することもできないのです。</p>]]>
    </content>
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    <title>反逆、ジェームスディーン的なるもの</title>
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    <published>2008-11-06T02:22:08Z</published>
    <updated>2010-02-16T07:34:21Z</updated>

    <summary> 　ヘッダーを模様替えしました。　映画『エデンの東』から、ジェームス･ディーンです。　元祖「反逆のカリスマ」ですが、この映画や「ジャイアント」で彼が演じていたのは、反逆ではなく「自立していく男」です。反逆とは、自立していく過程で起こる現象なのです。 ...</summary>
    <author>
        <name>小林由典</name>
        
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        <category term="004 父子関係の諸問題" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[ <p>　ヘッダーを模様替えしました。<br />　映画『エデンの東』から、ジェームス･ディーンです。<br /><br />　元祖「反逆のカリスマ」ですが、この映画や「ジャイアント」で彼が演じていたのは、反逆ではなく「自立していく男」です。反逆とは、自立していく過程で起こる現象なのです。<br /> </p>]]>
        <![CDATA[　<p>「エデンの東」のメインキャストは３人の思春期の若者。<br />双子の兄弟のアレンとキャル、そしてアレンの恋人アブラ。<br /></p><p><br />厳格で保守的な父の期待を一身に受ける兄のアレンは、子供のような純粋さを持つ「よい子」だが、その内面は父親譲りの頑固さ、勇敢さを持ち、相手の気持ちをあまり考えないタイプだった。<br /><br />自由奔放で父から疎んじられている弟のキャル（ジェームス･ディーン）は、ひねくれ者で粗暴だと見なされているが、本当は繊細で、ワルぶって自分のこころを守っている。父の愛情を求めながらその期待とは裏腹なことをやっては、傷つきながら成長する。<br /><br />誰からも愛されるアブラは、彼女を我がものとする母との確執に苦しむ。自分の部屋も着るものも、何もかも母に仕切られて、深窓のお嬢さんとして育てられているが、芯の強さを持っており、自我を確立して大人の女になっていく。<br /><br /><br />
　二人の兄弟の陰影は、アブラという女性によって、鮮やかに浮き彫りにされます。<br />
　彼女は、昔失踪して今は売春宿の主となっている二人の母親ケイト（原作ではキャシー）と、光と陰の関係となっているのです。</p><p><br /></p><p>　アロン<br />「まるで、綿に包み込まれた鳥の卵のような感じがした。この綿は、父親が自分に託している夢だ。<br />柔らかく、だが止むことなく締め付けてくるこの力。それを破り、逃れる強さが、果たして自分にあるのだろうか？」</p><p>　親からすると「よい子」のアロンだが、父の期待と愛情を「真綿で締め付けられるようだ」と感じているわけです。</p><p>　そして、周囲が望むように、アブラにプロポーズして、婚約関係になる。</p><p>　アロン17歳、アブラはもうすぐ15歳。</p><p>　18歳で軍隊に入ることができる大人と見なされる時代でした。</p><p><br /></p><p>　アロンは父の望み通り大学に入り、親元を離れる。</p><p>「アロンは新しい夢を熱心に飾り立てた。アブラこそ新しい夢の中核になった。アロンはアブラを創造し、その新しいアブラに恋をした。<br />　アブラはアロンの意識の中で、次第に輝きを増し、純粋になり、美しくなった。<br />　書き上がった手紙は、恋慕の情が滴り落ちるようなラブレターだったが、そのトーンの高さがアブラを不安にした」<br /></p><p><br /></p><p>アブラとリー（アロンのトラスク家の執事）の会話<br />「アロンは私のことなんて考えてない。頭に架空の女がいて、それに私のイメージをダブらせているだけ。<br />　私は違う。そんな作り物の女じゃない。<br />　あの人が欲しいのは、真っ白な幻想の女よ」（幻想の女：原書ではｇhost＝幽霊）<br /><br />　アロンは空想の中で母を理想化しており、その理想像にアブラを重ね合わせていた。<br /><br />「あなたはそれを、そっくり突っ返す方法はないかと思っている...」<br /><br />「ええ」<br /><br />「突っ返されて、アロンがあなたを好きでなくなったら？」<br /><br />「賭けね。それでも、私は自分自身でありたい」<br /><br /></p><p>　そのアロンはピーターパンシンドロームのただ中にある。</p><p>　大人になりきれない。彼は宗教世界に傾倒していき、牧師になると言い出して、二人の関係を破壊してしまう。</p><p>　そんなことが背景にあって、アブラは傷つきながら自立していくキャルに自分の話を聞かせるのであった。<br /></p><p><br /></p><p>　アブラ<br />　「ある時...そんな昔じゃない...、私は突然成長していき、小さな女の子じゃなくなった...。　</p><p>　（I'm very grown up ! と何度も繰り返しています。）</p><p><br />　その時から、私はもうアロンを愛していなくなった...。<br />　アロンは、子供の世界にしがみついて、現実の方をメチャメチャにする。</p><p>　（中略）<br /><br />　私、自由になった気がする。<br />　なんだか、あなたが好きになったみたいよ、キャル」</p><p><br /></p><p>　以上は原作の方からのピックアップですが、下の場面では後半の台詞は出てきません。</p><p>　画面では、アブラがキャルと同じような経験を経て、自分は大人になったという話をしているところです。</p><p>　アレンは、メキシコ女と付き合ったり、行ってはいけないところに出入りしていることを、「大人になった」アブラは、「ワルね」と軽くいなしています。</p><p>　もはや無辜の少女ではないという姿をさらりと描写しているわけです。<br /></p><p><br /></p><p>　この二人の会話の場面です。　　<br /></p>

<p><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/DsRWh-fYzS8&amp;hl=ja&amp;fs=1" /><param name="allowFullScreen" value="true" /><param name="allowscriptaccess" value="always" /><embed tplayername="SWF" splayername="SWF" id="Player1249918526315" type="application/x-shockwave-flash" src="http://www.youtube.com/v/DsRWh-fYzS8&amp;hl=ja&amp;fs=1" mediawrapchecked="true" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></object></p>

<p>　アブラが自分の過去の苦悩を話し始めたとき、キャルは急に真面目な顔をして、</p><p>　「なぜ、そんなことを、この僕に話すの？」と言い、アブラは「どうしても、話しておきたいの」と、応えます。</p><p>　この後、二人のこころに絆が生まれていきます。</p><p>　自分の本当の内面を、不足なく相手に伝えていかないと、信頼感というものは生まれてきませんね。</p><p><br /></p><p>　実は、キャルは亡くなったと教えられていた実の母ケイトが、港町モントレーで風俗営業店の女主となっていることを知り、会いに行ってけんもほろろに追い返されて、ショックを受けていたのです。</p><p>　実母ケイトはアレンの方を愛していて、自殺した後の全財産をアレンに相続させるという続きがあるのですが...。堕胎、殺人、自殺というケイトの行動は、キリスト教の価値観を根底から否定する悪の象徴です。</p><p>　そして、キャルは兄が母親似であることを知り、なぜ父のアダム・トラスクがアレンばかりを愛しているのか分かる気持ちがする。これは精神的に未熟なキャルのひがみなのですが。</p><p><br /></p><p>　そんなキャルの魂を救い出そうとするのがアブラなのです。</p><p><br /></p><p>　ドストエフスキーの『罪と罰』でラスコールニコフの魂を救済するソーニャを、</p><p>　ジョン・スタインベックは、ケイトとアブラという二人の対照的な人物に分けて託し、ごく普通のあり得る人物として描いたのではないだろうか。</p><p>　ケイトもアブラも、アメリカ社会ではあり得る人。</p><p>　徹底した聖と穢れをあわせ持つソーニャは、「あり得ない人」であるからだ。</p><p><br /></p><p>　それはさておき、アブラは15歳前だというのに、精神的に自立した女に成長している。『風と共に去りぬ』のスカーレットになりうる強い女性ですね。</p><p>　対照的に、アレンはピーターパンのまま、自分を見失って、年齢を偽って志願兵となり戦死する。宗教的な理由で自殺はできないので、戦死する道を進んだわけです。</p><p><br /></p><p>　小説の終わりのほうで、アブラはキャルに子どもと大人の違いを話します。</p><p>　「子どもって、いつも自分が中心でしょう？すべてが自分のために起こってくれる。自分以外の人間なんて、話し相手として用意された人形だと思っている。（人形：原書ではｇhost＝幽霊）<br />　でも大人になると、他人の間に自分の居場所ができて、自分の大きさができて、形ができる。こっちから出て行くものもあるし、ほかの人から入ってくるものもある」</p><p><br /></p><p>　母に捨てられ、父に拒否されてきたキャルのこころを、15歳のアブラが救うのです。<br /></p><p>　キャルは、自分の愚行により兄を戦死させ、父にショックを与えて死に追いやり、もがきながらも男として自立していく。彼は罪の意識から現実逃避をはかろうとするが、アブラは、</p><p>　「逃げ出していく人と、付き合うことはできないわ」と、厳しく言います。そして、</p><p>　「お父様のところに戻りましょう」と諭す。</p><p>キャルは執事のリーに「アブラに連れ戻されたよ」と言いますが、アブラは毅然として、</p><p>　「私がいなくても、キャルは自分から戻ったわ」と言う。</p><p>　アブラによって、キャルが一人前の男になった瞬間だと思います。<br /></p><p><br /></p><p>　臨終の場面で、父のアダム・トラスクはこの息子を許したのか、許さなかったのか。</p><p>　父子の絆は切れていなかったことを暗示して、物語は終わる。</p><p><br /></p><p>　キリスト教的世界観が深く関わってきますので、私の受け取り方とアメリカ人の受け取り方は違う部分があるかと思いますが、男の子が一人前の大人になっていくためには、極端にいえば父親の死を土台にしていくほどの心構えがいるのだよ、という本質的な厳しさが示されていると思います。<br /></p><p><br /></p><p>（以下続く）</p>]]>
    </content>
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    <title><![CDATA[インド音楽、父と娘　Ravi Shankar &amp; Anoushka Shankar]]></title>
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    <published>2008-10-25T22:30:57Z</published>
    <updated>2010-02-16T07:27:44Z</updated>

    <summary> 　Ravi Shankar（ラビ・シャンカール） はいわずと知れた世界的に有名なシタール奏者です。　私がシタールを習っていたのはベナレスでもっとも有名なDasaswamedh Ghat の近くであり、Ravi Shankarの家まで自転車で行けるよと教えられたことがありました。　Ghat（ガート） というのは、ガンジス川の沐浴場であり、また火葬場でもある場所です。　この動画で使っているシタールは...</summary>
    <author>
        <name>小林由典</name>
        
    </author>
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[ <p>　Ravi Shankar（ラビ・シャンカール） はいわずと知れた世界的に有名なシタール奏者です。</p><p><br />　私がシタールを習っていたのはベナレスでもっとも有名な<a href="http://maps.google.co.jp/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=+Dasaswamedh+Ghat&amp;jsv=133d&amp;sll=25.314391,83.010635&amp;sspn=0.03701,0.055275&amp;ie=UTF8&amp;view=map">Dasaswamedh Ghat </a>の近くであり、Ravi Shankarの家まで自転車で行けるよと教えられたことがありました。</p><p>　Ghat（ガート） というのは、ガンジス川の沐浴場であり、また火葬場でもある場所です。<br /><br />　この動画で使っているシタールは、ベナレス出身のRhada Krishna（ラーダ・クリシュナ） のシタールです。私も、カルカッタにあるRhada Krishna の工房＆ショップまで行って、シタールのストラディバリウスといわれる名品を買ってきました。懐かしいです。 </p>]]>
        <![CDATA[　<p>「Raga Rangeela Piloo」　Ravi Shankar &amp; Anoushka Shankar<br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/LzN2gUGYUGc&amp;hl=ja&amp;fs=1" /><param name="allowFullScreen" value="true" /><embed src="http://www.youtube.com/v/LzN2gUGYUGc&amp;hl=ja&amp;fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></object><br />
<br />
</p><p>　Anoushka Shankar（アニューシュカ・シャンカール） はRavi Shankar の末娘です。<br /></p><p>　Ravi Shankar は世界的な巨匠ですから、娘としては偉大すぎる父に畏敬の念を覚えるばかりでしょうね。</p>

<p>　父の神業のような演奏にはかなわないわ、という風情が見えますね。<br />
　それでも徒弟制度で鍛えられた「根性が据わっている」顔つきです。</p><p><br /></p><p>　この演奏の後半ではインド音楽の特徴であるjugalbandi （ジュガルバンディー）という楽器同士の掛け合いが良く分かります。シタールがあるフレーズを弾くと、タブラが同じリズムを返してくる、あるいはAnoushkaのシタールが同じフレーズを同じ音程あるいは1オクターブ低い音程で返してくる。その逆の場合もあります。</p><p><br /></p>

<p>　彼女は、音楽の世界ツアーをやったり、現代的な技術を使った編曲などもやっています。世界に出て活躍するのが当然という家柄で育った資質がうらやましいほどです。</p><p><br /></p>

<p>　彼女の演奏は、父とは違った女性的でメロウな音色の演奏が特徴です。また、上流階級のインド人女性のたしなみである古典音楽の声楽でも一流です。欧米で競演したミュージシャンは、「Anoushka」自身が音楽そのものだ、と賞賛していますね。</p><p><br /></p>

<p>　<big>「Naked」　Anoushka Shankar</big> <br />
<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/Ge8zyUDrA6Y&amp;hl=ja&amp;fs=1" /><param name="allowFullScreen" value="true" /><embed src="http://www.youtube.com/v/Ge8zyUDrA6Y&amp;hl=ja&amp;fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></object></p>

<p><br /></p><p>　Anoushka という名前はロシア風な名前ですね。shka（ロシア語でшka）というのは、ロシアでは愛称で呼ぶ場合の接尾辞です。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に出てくるアリョーシャ・カラマーゾフ（Алёша Карамазов）の名前はアレクセイの愛称ですね。女性の場合はshkaがつくことが多いです。</p>

<p>　ロシア語もヒンドゥー語も、サンスクリット語から分化している部分があるので、そのせいもあるでしょう。そして、独立後のインドは中立といっても、ソ連の援助をだいぶ受けていますので、文物が流れ込んでいます。</p><p>　ロシア語版『カラマーゾフの兄弟』を私はベナレスの露天で見つけて購入し、避暑に戻ったネパールのカトマンズで読みました。カトマンズの常宿であったコッテジ・オーロラの女将さんは日本人で、モスクワ友好大学出身でした。二人でロシア民謡を歌いまくったのが思い出に残っています。</p>]]>
    </content>
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    <title>インド音楽の父子アラ・ラカ＆ザキル・フセイン</title>
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    <id>tag:e-book4u.info,2008://2.28</id>

    <published>2008-10-23T23:17:24Z</published>
    <updated>2010-02-16T07:23:02Z</updated>

    <summary>　 　前回出てきたタブラ奏者のザキルのデビューはなんと13歳です。父への出演依頼に、自分の代わりに息子を推薦したのですが、すでに一流奏者としての腕を認めていたわけです。  　ザキルはリザーブなしの切符一枚で、列車に乗って演奏会場のあるパトナに向かいました。　座席を予約していないため、列車の椅子に座る事ができずに、通路にあぐらをかいてタブラをひざの上に抱えてベナレスの東にあるパトナに行ったそうです。...</summary>
    <author>
        <name>小林由典</name>
        
    </author>
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://e-book4u.info/">
        <![CDATA[　 <p>　前回出てきたタブラ奏者のザキルのデビューはなんと13歳です。父への出演依頼に、自分の代わりに息子を推薦したのですが、すでに一流奏者としての腕を認めていたわけです。 </p>
<p>　ザキルはリザーブなしの切符一枚で、列車に乗って演奏会場のあるパトナに向かいました。</p><p>　座席を予約していないため、列車の椅子に座る事ができずに、通路にあぐらをかいてタブラをひざの上に抱えてベナレスの東にあるパトナに行ったそうです。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　ここでは二人が競演したタブラ演奏を紹介します。 <br /></p><p><br /></p>

<p>Ustad Allah Rakha &amp; Zakir Hussain<br /></p><p><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/LArtpbpbGwk&amp;hl=ja&amp;fs=1" /><param name="allowFullScreen" value="true" /><embed src="http://www.youtube.com/v/LArtpbpbGwk&amp;hl=ja&amp;fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></object></p>

<p><br /></p><p>　これは普段の練習風景そのものですね。<br />　このような修練をタブラの場合４．５歳の頃からやってきていますから、20歳台でキャリア20年というわけですので、新米どころかあぶらが乗り切っているというところです。</p><p><br /></p>
<p>　ザキルは道場破りのように、いろいろな演奏家と競演していますので、父親よりも世界的な名声を博しています。</p><p><br /></p><p>若い息子と競演するアラ・ラカ<br /><a href="http://jp.youtube.com/watch?v=rQ2J2ckTpWg&amp;feature=related"><img alt="allah_rakha.jpg" src="http://e-book4u.info/gazou01/allah_rakha.jpg" class="mt-image-none" style="" width="422" height="300" /></a></p>
<p><br /></p><p>　それにしても、13歳で演奏会デビュー。それも、お子様の発表会というようなものではなく、名うての演奏家たちのリズムパートを受け持つ、というのは大変なプレッシャーです。</p><p><br /></p><p>　インド音楽のリズムはTaｌa といいますが、インド音楽の高度なテクニックのひとつとして、途中でリズムを変えてぐるっと一周して元のリズムに復帰する、というのがあります。</p><p>　4444で構成される16ビートの曲の途中で、2323の10ビートに切り替えたとしたら、10と16の最小公倍数である80ビートまでやらないと、元のリズムに復帰できないわけです。</p><p><br /></p><p>　その間、シタールやサロードあるいはバンスリ、サランギなどのメロディー楽器はタブラのリズムにつられることなく内的リズムを守って、80ビートあるいはその倍数を演奏しなければなりません。</p><p>　ずっとリズム違いの状態を80ビートまで刻んで、最初の拍に戻ってジャン！と決めたりすると、耳の肥えている聴衆は「オオー！」という感じで、拍手喝采というわけです。ワンパターンのロックのリズムと比べると、想像もできない超絶技の世界です。</p><p><br /></p><p>　そこまで、出来ていなければ師としては送り出すことは出来ません。私たちが想像するだけでもゾッとするほどの緊張だと思うのですが、そんな不安が起きようもないほど修練をしている、ということです。<br /></p><p><br /></p>
<p>　であるにもかかわらず、その真剣勝負の決闘の場に、リザベーションなしの列車乗車券一枚で送り出す、というのもすごいです。獅子はわが子を谷底に落とす、という例えさながらですね。</p><p><br /></p>
<p>　当時のインドの列車は予約をすると、列車および何号車という指定券をもらいます。予約なしですと、座席には座れません。</p><p><br /></p>
<p>　私がベナレスからニューデリーに行ったとき、カルカッタ発の列車は予定時刻に来なくて、次々と入ってくる列車の各車両に貼り付けてある乗客名リストを１号車から最後尾まで走って見て回る事を何度も繰り返しました。</p><p>　駅のアナウンスはないし、駅員も数時間の遅れは当たり前なので、正確な情報はつかめない。かすれたタイプ印刷のリストをさっと眺め、自分の名前がなければ次の車両に走って、またリストを見て...インド的混沌の世界でした。</p><p><br /></p>
<p>　その列車は結局4時間ほど遅れてやったきたのですが、その時には何度も何度も走り回って、くたびれ果ててしまいました。</p>
<p>　列車に乗って席を探すと、誰かが座っています。他の空席どころか、列車の窓にも屋根にも人がいるし、荷物棚にまで人が乗っているという超満員のなかで、ベンガル人独特の怖い顔をした人物に席の明け渡しを要求するのは勇気がいりました。</p><p><br /></p><p>　長旅ですので、誰もが素焼きの水瓶に水道水を入れて持ち歩いており、弁当になるチャパティーやサモサなどを持参しておりました。各号車が仕切られているインドの列車では、飲食物を車内販売するカートは回ってこないのでした。<br /></p>
<p>　ザキルはこの逆のルート（下り列車）で、ベナレスよりもカルカッタ寄りにあるパトナに向かったわけです。タブラがだめにならないようにひざに乗せて、夜行列車でうたた寝しながら一晩乗り続け、その足で演奏会。</p><p><br /></p>
<p>　厳しい話です。13歳のSchoolboy が一人前の男として自立していったのです。<br />　そう思ってこの演奏を聴くと、別種の感慨を禁じえません。</p>]]>
    </content>
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